イベント

2020/03/26

 

2019年度第2回臨床仏教研究所公開研究会を開催しました。

「いのちのつながり」による心のケア
 全青協附属の臨床仏教研究所では、3月26日に公開研究会を開催いたしました。今回、新型コロナウィルスの影響により、参加者を研究員・発表者・臨床仏教師認定者のみに限定し、規模を縮小しての開催となりました。
 生老病死の苦しみの現場に自ら足を運び、その声やこころの内を聴かせていただく臨床仏教師-。日々の活動やそのあり方について、4名の臨床仏教師の方に発表を行っていただきました。
 最初に登壇した内山美由紀さんは、33年間、看護師として勤めた後、臨床仏教師の認定を受けました。現在は、東京慈恵会医科大学附属病院にて、訪問研究員として急性期の患者さんに対するチームケアに参加しています。
 内山さんは、死期を目前にした患者さんが、臨床仏教師との対話により、自分自身や、人、物、出来事、物語、超越的なものなどをありのままに受け入れていくことで、成熟のプロセスを辿っていく、ということを述べました。
 自らのいのちの時間の受容、同じく入院し苦しみを抱える仲間との共感、いつも気にかけてくれる医療従事者をはじめたくさんの方々の支えへの感謝、そして、疎遠になっていたご家族との和解-。このような「いのちのつながり」は、病や死の苦しみを和らげる希望の光となっていく、と語りました。そして、臨床仏教師として、「いのちのつながり」に目を向け、敬意と尊重を持って丁寧に接することが大切と、お話されました。
 東京都内にあるお寺の寺族である飯島聡子さんは、ご自坊にて電話による相談を受けているほか、高齢の方を対象とする「てらばた」、発達障がいのお子さんを持つ親御さん対象の「よもやまカフェ」、障がいを持つお子さんとその親御さん対象の「わいがやキッチン」など、地域の方を対象とした「語り場」を開設しています。「わいがやキッチン」は、「子どもたちが多くの人と接する中で人間関係のルールを学ぶなど、学校や施設以外での経験ができれば」という親御さんの願いから始まりました。秋には、親子で新米のおにぎりをにぎるワークショップを開催したそうです。
 障がいをもつ子どもたちの中には、特定の場所や食べ物にこだわりを持っている子どももいるということですが、会では、安心できる雰囲気の中で、おにぎりを自分で作ることに喜びを感じ、その達成感から好き嫌いを克服したり、たくさん食べたりする姿も見られたとのことでした。
 このようなワークショップや茶話会の中では、お互いの喜び、苦しみを分かち合うことができるように努めていると、飯島さんは語りました。時には個別の相談にも応じ、区の職員とも連携を取りながら心のケアに当たっているそうです。



寄り添い、模索し続けること
 山形県の寺院住職である伊藤竜信さんは、米沢市にある三友堂病院緩和ケア病棟にて、患者さんとそのご家族のケアにあたっています。また、ご自坊にて介護者のためのカフェ「わげんカフェ」を開いています。
 「わげんカフェ」では、普段、孤立しがちな介護者の方が、安心を感じられる雰囲気の中で、それぞれの体験や悩みを分かち合っているといいます。時には医療・福祉の専門家も関わり、具体的なサポートにつながる支援なども行われています。
 死や老いに対する悲嘆や不安は、誰にとっても無縁であるわけがないのですが、現代社会においては、これらについて話すことは、ときにタブー視されてしまうことがあります。しかし、伊藤さんはカフェの活動を通じて「お寺だからこそ、死や老いについて話しやすいのではないかということを深く感じるようになった」と語り、さらなる活動への意欲を示されました。
 福島県の寺院で副住職を務める楠 恭信さんは、福島県立医科大学会津医療センター緩和ケア病棟や、地元、猪苗代町に拠点を置く敬愛訪問看護ステーションで、傾聴活動や在宅ケアの活動をそれぞれ行っています。
 高齢者等が、住み慣れた地域で自分らしい人生を全うする「地域包括ケアシステム」が全国的にも進められる中で、楠さんはまた、会津若松市の竹田綜合病院の神経内科病棟より依頼を受けるようになったと語りました。治療法などが確立されていない神経難病を患っている方は、身体的に不自由であっても意識がはっきりしている方も多いといいます。「家族に迷惑をかけている、この状況でいつまで生きるのか」という想いなど、死が目前にあるわけではないが、病の進行が確実にある中での「生きる」辛さを抱えておられることがあるということです。 
 たとえば、患者さんが何か要望や欲求を抱いても、多くの人の手を煩わせることに遠慮して、なかなか本音を言うことができないという状況があります。楠さんは日々、その苦しみをいかに汲み取って寄り添うかを考え、自身の存在を肯定することができるように、説得材料をどう見つけていくかについて模索していると語りました。
 ある医師より、「病と向き合わねばならなくなったとき、すがることのできるものや言葉があると、精神的な苦しみは少し軽減するのではないか。臨床仏教師の存在に一種の光を感じている」と語られたという楠さん。その言葉が現在の活動への大きな勇気となっているとお話されました。



そこにいること=「信頼」
 研究会の後半には、神 仁上席研究員と吉水岳彦研究員の両氏を討論者として、指定討論が行われました。「臨床仏教師としての認定を受けてから、今までをどのように振り返りますか?」という質問が投げかけられると、発表者の皆さんは、当初は「自らが臨床仏教師として求められうる存在になれるのだろうか・・・」という疑問や不安の中で活動していたと明かしました。しかし、経験を積み重ねていくうちに、「何かすること」よりも「そこにいること」の重要性を感じるようになったという声があがり、一同、深く頷いていました。
 また、「臨床仏教師でなければならない理由は何か? 臨床仏教師としてどのような活動を志しているか」について問われると、内山さんは、「看護師として医療ケアに従事していた際には、患者さんを科学的に分析・評価することが求められていた。しかし、現在は臨床仏教師として、患者さん本人の生きようとする気持ちや言葉に、より耳を澄ませていきたいと思う。そして、死生観についての相談も、逃げることなくしっかり向き合っていきたい」と答えていました。

相手からいただく学びを大切に
 楠さんは、「その方の『病気を診る』のではなく、まずは、一つひとつの対話に神経を研ぎ澄ませ、人対人の信頼関係を構築することを第一としている」と述べました。
 「活動の中では、自らも信仰に救われ、学ばせていただいている。自らが発信するだけではなく、臨床仏教師として患者さんの心から受け取らせていただいていることを大切にしたい」と、自身の心の姿勢を語りました。
 結びに、神研究員は、「3年ないし5年の活動を経て、皆さんの智慧にもとづいた慈悲の行い、菩薩行・同事行が、現実化していっているように感じる。これからも丁寧にその経験を積み重ねていってほしい。また、その中で何か軸がぶれるようなことがあっても、いつも原点に立ち返って自分自身と語り合ってほしい、それが死生観の確立にもつながっていくのでは」と今後の臨床仏教師の活躍に期待を込めて述べました。
 「生」と「死」をしっかりと見つめ、苦しみを抱える方の声なき声を聴き、その方のこころに寄り添いながら「つながり」を紡いでゆく―。臨床仏教師の方々は、今日も答えなき問いを重ねる毎日の中、地道に活動されています。
 不安や苦悩が広がる現代において、これからも臨床仏教師の存在が一筋の光となることを願うばかりです。



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