2016/9/15
”いのちのケアを考える”-臨床仏教公開シンポジウムin京都
全青協附属の臨床仏教研究所は9月15日、京都市左京区の京都大学稲盛財団記念館を会場に、京都大学こころの未来研究センターと共催で、公開シンポジウム「“いのちのケア”を考える」を開催
しました。
このシンポジウムは、「日本人の精神性に即したスピリチュアルケアとは?」をテーマに開かれました。スピリチュアルケアは、もともとキリスト教の宗教文化の中で培われてきたケアのあり方ですが、それを日本の宗教文化の中で活用していく方途を探ろうというのが、シンポジウムの主な目的です。
全青協・臨床仏教研究所がこのようなシンポジ ウムを開催するに至った理由は、一つには、少子高齢化社会の進行や頻発する災害によって、日本社会はさまざまな形のケアを必要とする人が増加し、その深刻度を増している現状があるからです。二つには、その要請に応じる形で臨床仏教研究所が立ち上げ、今年で3期目を迎える「臨床仏教師養成プログラム」が目指すいのちのケアの方向性を再確認し、広くその意義を共有したいというねらいがありました。
シンポジウム当日、会場は平日にもかかわらず100名を超える参加者でいっぱいになりました。高齢者から若者まで老若男女とりまぜた参加者は、最後までパネリストの議論に真剣な表情で耳を傾けました。前半には、四人のパネリストによる発題がありました。
はじめに登壇したのは、上智大学グリーフケア研究所特任所長の髙木慶子さんです。髙木さんは修道生活を送るキリスト者であり、長年にわたってスピリチュアルケアや震災・事故被害者のグリーフケアに携わってきました。髙木さんはグリーフケアの立場から、スピリチュアリティ について論じました。
髙木さんは、スピリチュアリティとは「大いなるもの(いのちの源泉)との関わりを体験するこ と、そのはたらき」 のことで、それには水平的次元と垂直的次元がある、といいます大いなるものとの関わりの体験(垂直的次元)が深ければ、それがその人の生活(水平的次元)に反映されて豊かさを生んでいくというのです。
そして「スピリチュアルに対するケア」とは、スピリチュアル・ペイン(なぜ生まれてきたのか、死んだらどうなるのかという根源的な疑問・苦悩)に対するケアのことで、それに対処するには「大いなるもの」、人知を超えた神の世界に触れていく こと、つまり、「宗教の力によって解決を図っていくしかない」と、自身の豊富なグリーフケアの経験をもとに話しました。
次に登壇した東京大学名誉教授の大井玄さんは、国立環境研究所所長も務めた終末期医療(ターミナルケア)全般のエキスパートとして著名な医師です。仏陀の晩年の姿を例に引きながら、大病を患った自身の経験も踏まえて認知症高齢者のケアについて論じました。
大井さんは、「認知症高齢者の中心感情は不安であり、それはつながりの喪失感から生じるものなので、つながり感覚の回復が認知症高齢者、看取られる人のケアの主目的である」と指摘します。
認知症高齢者は記憶と理解力を喪失しているため、言葉による論理的なコミュニケーションができません。そこで大井さんは、言葉の代わりに感覚器官を活用した「さわる(接触)」「笑顔を見せる(眼蝕)」「音を聞かせる(耳蝕)」の三つの行為によるコミュニケーションで、つながり感覚を回復させることができるといいます。
そして、人は感覚刺激と記憶によって脳が作り出した「意味の世界」に住んでいるので、その「意味の世界」を推察して、そこに入り込んでつながりを感じさせること、これがもっとも主要な認知症介護の目的であるとしました。
大井さんは最後までスピリチュアルという言葉をわずに脳科学の立場で論じたにもかかわらず、ふしぎとその内容はスピリチュアルな印象を与えるものとなりました。
三人目に登壇した花園大学学長の丹治光浩さんは、臨床心理学の専門家です。
丹治さんは、心理学会では「スピリチュアル」はその定義が曖昧で扱いにくいので、これをテーマとする研究者は少ないといいます。
その少ない心理学者の研究の中から、丹治さんは「スピリチュアルバステスト」というものを紹介しました。これは、用意された15の設問に答えると「スピリチュアルな感性」「スピリチュアルな態度」「スピリチュアルな行動」の三つの傾向が判定できるというものです。
ある程度、客観的に個々人のスピリチュアル度を判定する指標が得られるという点で、これは注目されるテストといえそうです。
また、アルコール依存症からの回復プロジェク トに「12ステップ」というものがあり、この中に「自分を超えた大きな力」「神」というスピリチュアルを連想させる言葉が使用されているのですが、日本人は、それを抵抗なく受け入れているという例も紹介しました。丹治さんによれば、「日本人は墓参り といった日常行動の中で、もともとスピリチュアルな感覚を持っているからではないか」と言います。
丹治さんは東日本大震災後、臨床心理士として 被災地で行った支援活動や、所属する臨済宗妙心寺派の災害救援活動、花園大学の傾聴ボランティア養成講座を紹介し、今後は臨床心理学のカウンセリングケアと、スピリチュアルなケアとを組み合わせることも必要ではないかと示唆して論を終えました。
臨床仏教研究所の神仁上席研究員は、この日台風のため来日が出来なくなった釈恆楚台湾大学付属病院専任チャプレンに代わって「台湾における仏教チャプレンの活動と日本における臨床仏教の展開」について論じました。
神研究員は、チャプレンとはキリスト教の聖職者の間で発達してきた教育プログラムであり、それを仏教版にしたプログラムが1998年から台湾で実施されていること、そして専門のトレーニングを経た僧侶が国立病院などで仏教チャプレン(臨床仏教宗教師)として活躍していることを報告しました。
また台湾での取り組みの歴史とその研修内容、 スピリチュアル・ペインの現場などを幅広く取材したデータに基づいて紹介した後、神研究員は、日本でも近年、仏教界と社会との協働のあり方が再考されるようになり、臨床仏教研究所がその声に応える形で「臨床仏教師養成プログラム」を立ち上げたという経緯を説明しました。
立ち上げに際して神研究員は「臨床仏教」の概念を次のように定義しています。 臨床仏教とは、臨床という言葉から連想される、死の床にある患者を対象とした仏教(クリニカル・ブディズム)ではなく、ベトナム人僧侶のティク・ナット・ハンが提唱したエンゲイジド・ブディズム(社会参加仏教=社会参加すると同時に自己の内面にも深く関わっていく仏教)に近いもので、「個のいのち(霊的)な領域、および人間の生老病死にまつわるさまざまな社会事象における苦悩に向き合う仏教」というものです。
わかりやすくいえば、シンポジウムのタイトルにある“いのちのケア”を実践する仏教、生老病死に寄り添う仏教ということです。
神研究員はそれを実現する仏教者を育成するのが臨床仏教師養成プログラムであり、養成された臨床仏教師は高い倫理精神、強い信念と信仰、そして信頼に足る行動力と自制力を備えて、生老病死の苦の最中にある人々の安寧に寄与していくこ とになると期待感を示しました。
休憩を挟んで、後半は四人の発題を受けてのディスカッションが行われました。
ディスカッションの中では、コメンテーターのカール・ベッカー京都大学こころの未来研究センター教授が、四人のパネリストの講演を聞いた感想を「スピリチュアルとは何かの答が、四人とも違っている。これでは聞いている人はますますわからなくなるのではないか」と指摘しました。
ベッカーさんは、研究室に自殺したいと京都大学生が相談に来たこと、交通事故で夫を亡くした未亡人が「なぜ主人は死なねばならなかったのか」とカウンセリングを受けに来たことを例に挙げ、「この、生きづらいから、どう生きたらいいか? 夫に死なれたのは何でか? という問いかけこそ、スピリチュアルの問題だと思う。つまり、我々は死に向かってどう生きるのか、また大事な人の死をどう受け止めるのか、この“死”と切っても切れない関係がスピリチュアルの領域です」と論じました。
またベッカーさんは、「四十数年前に私が留学した時代から、日本がいろんな形で変わってきまし た。かつては、全世界の中で日本人が最も死を恐れない民族でした。在宅で看取っているからです。死は日常的なことであって、さびしいとか悲しいとかは思っても恐いとは思いません。ところが今日本は、調査の対象となる国々の中で最も死を恐がっている国です。死を見つめていない。わからないから恐いんです」と、発言しました。そして、日本人が死の癒やしや看病をしてこられたのはなぜか というと、いうまでもなく仏教のおかげだと、ベッカーさんは続けます。
「大事な身内を失って、なんでわたしが、どうしたらいいのか、いったいどうなっているのかと思うなら、これはスピリチュアル・ペインです。 その何割かの人が健康を害したり、うつや精神病になったりします。江戸時代からほとんどの医師は僧侶でした。当時僧侶は葬式だけではなくて、死ぬまでに面倒を見て、ケアをして、そして枕経を唱えながら今度は遺族のケアをしていたんです。
この仏教の役割を我々が直ちに取り戻さないと、仏教が切り捨てられるだけではなく、多くの日本人の遺族となる方がたが大変な思いをするかもしれません。仏教がうまく機能すれば、遺族はいのちのあり方を理解して、打撃を受けずに済むのです。日本の公衆衛生のために、仏教者に頑張ってもらわないとどうしようもない時代に向かってい ます」
ディスカッションの総括としてベッカーさんは、「京都大学を含めて、全国のさまざまな大学や研究所で、これから我々が死をどう受け入れるかということに加えて、仏教や葬儀の意味についても建設的に考えようとするところが増えてくるでしょう」と語りました。
うつ、精神不安、リストカット、虐待、いじめ、 自死―。さまざまなことが科学的に解明されているはずの現代においても、生老病死の苦しみは無くなるどころかより寄る辺のない方向に来ているように思えてなりません。
誰もが漠然とした不安を感じているさなか、「いのち」について生涯を通じて問い続け、苦しみに寄り添う実践を行い続ける宗教者、仏教者が、今、求められているのです。