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2015/10/15

仏教&日本人の死生観

 9月17日、今年度3回目となる「生と死を見つめる集い」が開催され、神仁全青協主幹によって「仏教&日本人の死生観」と題するお話がもたれました。これまでの2回は医師である大井玄先生・田中雅博先生をお招きし、医学的な見地からエンディングやターミナルについて学んできました。今回は僧侶である神主幹が、宗教的な見地から仏教の死生観や日本人の死生観、ひいては自分自身の死生観まで、多様な視点でお話しました。


 神主幹は冒頭で、「生と死は表裏一体であり、死があるからこそ生が輝く、生が有限であるからこそ一日一日を大切に生きる」と述べられました。これは、お釈迦様以来伝えられてきた仏教の死生観であり、日本人である私たちの中にも知らず知らずのうちに受け継がれているといいます。そこで、今回の「生と死を見つめる集い」では、お釈迦様以来受け継がれてきた日本人の死生観がどのようなことに基づいて今日に到ったのか、あるいは日本人の死生観がどのような歴史をたどってきたのか、また、それぞれの時代を代表する宗教者や文化人がどのような死生観を抱いていたのかなど、多様な視点から死生観について学びました。
トピックを挙げると、インドの死生観、お釈迦様自身の死生観、『日本書紀』に説かれる死生観、鴨長明の死生観、道元・親鸞の死生観、蓮如の死生観、良寛の死生観、特攻隊員の私記『きけわだつみの声』にみられる死生観、金子みすゞの死生観、青木新門の死生観、「千の風になって」にみられる死生観、となります。たいへん内容の濃い盛り沢山の講義でありましたので、その中からいくつかを取り上げて、ごく簡単にご紹介いたします。
◆ お釈迦様の死生観
『大般涅槃経』を取り上げ、「自分自身の中にある絶対的な真理や仏性を見つめ、それを頼りに生きることが大切である」というお釈迦様の死生観が紹介されました。また、お釈迦様の言葉には、輪廻から抜け出すことが安楽であるというように「生」を苦しみと捉える一方で、生きることに喜びを見出すような面もみられるそうです。このことから、お釈迦様は自らの人生に苦しみながらも、生きることに喜びを見出し、自らの「生」を大切に歩まれていたことが伺えます。
◆ 『日本書紀』に説かれる死生観
現在でも、お葬式などの後にはお清めの塩が配られるように、日本人の死生観の中には死=穢れという意識があります。この死=穢れのルーツは『日本書紀』の中にも見出されるとのことです。
◆ 道元・親鸞の死生観
平安末期から鎌倉初期にかけては、集中して天変地異が起こり、迫りくる死を感じざるを得ない時代でした。そのような時世において、道元や親鸞は世の無常を心得、生死や自分自身に執着しないことの重要性を説かれました。
◆ 金子みすゞの死生観
金子みすゞの詩の中には、仏教的な死生観が色濃く表れています。例えば、「大漁」という詩は、人間の目線ではなく鰯の目線で語られていますが、鰯の目線で語ることで、人間が多くのいのちの犠牲にした上で生きていることが訴えられています。人間だけの目線でなくなれば、食べ物を頂くときに、自然と手を合わせるようになります。ひいては、自分だけの目線でなくなれば、他人の気持ちを理解できるようになり、いじめなども減っていくのではないかと、神主幹は言及されました。
◆ 「千の風になって」にみられる死生観
実際に曲を聴きながら「千の風になって」にみられる死生観について学びました。この曲のヒットによって、私たちがもう一度自分自身の死生観を振り返る良い契機にして欲しい、と神主幹は述べられています。そして、「いのち」に対する価値観、生きること、死ぬこと、お骨やお墓のこと、なぜ葬儀や法事をするのか、こういったことを一人一人がよく考え、自分自身の死生観を深めていくことが大切であると強調され、前半の講演は締めくくられました。
 後半のグループトークでは、参加者一人一人が自分自身の死生観を発表し合いました。「生」と「死」に対するそれぞれの想いを共有したことで、今一度、自分自身の死生観を見つめ直す良い機会となりました。
 最後に神主幹は、「過去を追うな、未来を願うな、過去はすでに捨てられた、未来はまだやってこない」というお釈迦様の言葉を紹介されました。「生きる」ということは、「今」の連続です。それは、過去を悩み、未来を恐れるのではなく、「今」を一生懸命生きるということです。神主幹の講演を通して、「生と死をみつめる集い」のテーマである「今日一日を輝いて生きるために」ということを改めて胸に刻むことができました。

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