カルト問題の行方

オウム問題が問いかけるもの

全青協 神 仁

◆入信する若者たち

 「うちの子どもがアーレフ(Aleph)に入信してしまったんです。なんとか脱会させられませんでしょうか......」「真面目な良い子だったのに、なぜこんなことになってしまったのでしょう......」

私は、そのような悲痛な声を当事者の親御さんから聞くことがしばしばあります。オウム真理教の後継団体であるアーレフへの入会者の多くは20代の若者です。特に大学生の頃に入信した人が少なくありません。

大学での人間関係でつまずき親にも話せずに一人で悩んでいるところ、先輩から優しい声をかけられてヨーガ・スクールへ。そして度々通う内に、指導者から突然、実はアーレフであることを明かされて入信を迫られる。自分がつらい時に寄り添い支援してくれた恩人からの誘いを断りきれずに入信書類にサイン......。

そのような若者たちが全国に少なからずいるのです。

彼ら彼女たちの多くは80年代以降の生まれで、幼い頃に起こった地下鉄サリン事件や松本サリン事件のことをほとんど記憶していません。仮に記憶していたとしても「子どもの頃に何か大変な事件が起こったようだ」といった程度のものです。今、大学生であれば、生まれてもいない頃の話です。

入信後は指導者や先輩から「一連の事件は国家や警察の陰謀だ」と繰り返し教え込まれ、疑問を抱えながらも自分の居場所をその場に求め続けようとします。

平成30年6月末の公安調査庁による発表では、オウム真理教の後継団体で主流派とされる「アーレフ」「山田らの集団」、反主流派とされる「光の輪」の信者数は合わせて1650人おり、そのうち出家者が約300人、在家信者が約1350人としています。教団の施設は全国15都道府県に35カ所あり、その保有資産も約11億1900万円に上ると言います。平成29年には、教団名を隠した勧誘活動により、アーレフだけで新たに130名以上の信者が入信したとも報告しています。

 ◆死刑執行の意味と課題

 オウム真理教の教祖麻原彰晃こと松本智津夫は、7月6日に東京拘置所で死刑を執行されました。6日と26日の両日に渡り、麻原以下13人の元幹部の死刑執行が終了したことにより、平成の時代において、一連の刑事事件は一定の区切りをつけたかのようにも受け止められます。

しかしながら、私にはこれまでもそうであったように、今後も懸念すべき事柄がいくつか横たわっているように思われます。

それは、第一になぜ20代30代の若者たちが、オウム真理教および麻原の教えを信じ犯罪者になるまでに到ってしまったのか。そして、なぜその後継団体に今なお入信していくのか、ということ。

この問題が解明されない上では、残念ながらまた名前を変えた新たな宗教カルトが生まれ出て、同じような事件を引き起こす可能性があることでしょう。

第二に、被害者やご遺族の方々の精神的なケアや支援をどのように行っていくのかということ。

死刑執行によって刑事的な幕引きがなされたことにより、被害者ご遺族の方々の怒りや憤りが少しは癒されたように思われるかもしれません。しかしながら、加害者が物的に存在しなくなることによって、ご家族を失ったことに対する喪失感・グリーフはご遺族自身の内に秘められることになり、より深いレベルでの精神的ケアが必要になってきます。

このことは、加害者自身や家族を含めた関係者、また、オウム真理教元信者の精神的なケアの必要性にも相通ずることです。自分自身の抱えていた「実存的な問い」をオウム真理教に委ね、そこにアイデンティティーを見出していた、あるいは今でも見出している当事者にとって、その根拠を奪われることによるグリーフは簡単に癒されるものではありません。 第三に、自分たちの心の寄りどころとはならず、信者から「単なる風景に過ぎなかった」と表現された寺院や仏教界、そして宗教界が、これらの問題に対して未だ明確な対応や対策を取っていないこと。また、オウム真理教の教宣を拡大することに一部加担をしてしまったとされる宗教学者等による充分な検証と総括がなされていないこと。

この問題は、若者たちの精神的な受け皿になることができなかった仏教者や、オウム真理教に対する的確な評価ができなかった宗教学者等の深い反省の元になされるべき事柄と言えるでしょう。加害者の死刑執行によって、その責務はより重要なものとなりました。

 ◆今、私たちにできること

 さて、上記三つの懸念事項に応える手がかりを、私なりに二点ほど提示させていただきます。

一つ目は、人間の欲求というものにまず焦点を当てるということです。アメリカの心理学者アブラハム・マズローは人間の欲求を次のような5段階に分類しました。

①生理的欲求 ②安全の欲求 ③所属と愛の欲求 ④承認の欲求 ⑤自己実現の欲求

生理的な欲求は食欲や睡眠欲などの人間が持つ根本的な欲求です。生理的な欲求の充足をベース として人は他の段階の欲求を満たそうとします。しばしば宗教の中には生理的な欲求を否定することによって、宗教的な自己実現、神仏との一体感ないしは包含感等を求めるものもあります。

しかしながら私は、これらの5段階の欲求を否定することなく、ありのままに見つめながら、それぞれを昇華させていく道を探ることが重要ではないかと考えています。それは仏教が説く「中道」の実践でもありましょう。

また二番目には、近年、終末期の患者さんのケアの場で実践してきた、自尊感情と自己存在を保つための「三つのつながり」の支援も挙げられると思います。

①自分(自己)とのつながり ②他者(他己)とのつながり ③大いなるいのち(神仏・大宇宙)とのつながり

私は、人が生きていくためにこれら三つのつながりが不可欠であると考えています。苦しみやグリーフの最中にあるそれぞれの方々が、これらのつながりを確認し深めていただく支援を私たちは心がける必要があるのではないかと思っています。それはマズローの言う自己実現のための重要な要素であるとも考えます。

人は終末期に関わらず、生まれながらにして「なぜ自分はこの世に生まれて来たのか」「生きる意味とはなんなのだろうか」「死んだら人はどうなるのだろうか」「こんなに苦しい人生なら早く終わらせた方が良いのではないか」といった実存的な問いを抱えています。私自身も子どもの頃から同様の問いを抱えながら生きてきました。

そして、オウム真理教に入信していったかつての若者たち、そして今も後継団体に所属している今の若者たち、彼ら彼女たちの多くもまたこのような問いを抱え、時には苦しみながら、それらの答えを求めて入信して行ったのでしょう。

今から20年近く前、私の元を何度も訪れてくれたオウム真理教の元出家信者の女性がいます。彼女は高校生の頃、家庭内の不和に悩むようになり、学校の図書室で哲学書や宗教書を読みあさります。そこで出会ったのが、「空」という教えでした。

彼女は自分がこの「空」の教えによって救われると思ったそうです。そして、学校近くにあった禅寺を訪ね、寺の僧侶に「空とはどういう意味ですか?」と問いかけたと言います。そこで帰ってきた言葉は「そんな難しいことをわしに聞くもんじゃない」というものでした。

門前で僧侶によってあしらわれた失意の中で、彼女はやがてオウム真理教の門を叩くことになるのです。

お経に書かれている文言やお祖師様方の言葉を論う教科書通りの答えは、悩み苦しむ心を、むしろ希望から遠いところへと追いやってしまうことが あります。答えることそのものはあまり重要ではないのです。今、私たちが大切にしなければならないことは、若者たちが抱えている実存的な問いに直接答えることではなく、彼ら彼女たちの心に寄り添いながら、共に悩み考えることではないか と思うのです。そのことが、若者たちにとって「風景」ではない、「リアル」な宗教のあり方につながっていくのだと信じています。