カルト問題の行方

より良く生きるための道とはーカルト宗教に取り込まれないためにー

臨床仏教研究所研究主幹 神 仁

◆若者の相談から

 安倍晋三元総理大臣の襲撃事件以来、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の活動に関するさまざまな議論がメディア上で報道されています。私は報道の第一報を耳にしたとき、これは政治的なテロではないということを直感しました。政治的なテロよりも、むしろ大阪の池田小学校事件、秋葉原の無差別殺傷事件に共通する、容疑者の「孤独・孤立」に起因した事件ではないかと受け止めたのです。
 さて、今から10年以上も前のこと、ある20代の女性から「これどう思います?」と言って自己啓発セミナーと思われる宣伝用のリーフレットを差し出されました。彼女は幼い頃から精神世界にとても興味を持っていたようです。
 リーフレットをよく見てみると、それはアメリカをはじめ世界各国で広まっている科学性を重視する擬似宗教団体のものであることに気づきました。あとになって分かるのですが、その団体はアメリカやヨーロッパでは、カルト組織として認識されており、とくに金銭的な面で社会問題化していました。
 彼女は、街を歩いていたら呼び止められ、簡単な説明を受けて「一度話を聞きに来てくれないか」と誘われたと告げました。その時点では、私自身、充分な知識を持ってはいなかったものの、その団体に対してある程度の危険性を感じていたので、その旨を伝えた上で、「ただ、どうしても興味があるのであれば、一度行って話を聞いてみるのも良いかもしれない。しかし、深入りしてはいけないよ」とアドヴァイスしました。
 彼女はその後、一年程に渡ってその団体に入り込むようになり、結果、100万円単位の受講料なるものを支払わされるはめになります。彼女の本質を見極める力を信じていたとはいえ、いま考えてみれば、私の言葉が迷っている本人の肩を押すきっかけになってしまったと思い、軽率なことであったと反省をしています。
 ちなみに、払い込んでしまった金額の多くは、消費者問題を専門とする弁護士を介して返金されました。このことは、カルトや悪質な自己啓発セミナーの問題にかかわるようになる私自身の責任について深く考えさせられる出来事でありました。

◆擬似宗教に魅かれる背景
 さて、なぜ人は、とくに若い人たちはこのように、はた目にも危なっかしい綱渡りをしなければならないのでしょうか?
 それは、家族から離れて自分を確立するまでの思春期最後のアイデンティティー(自己同一性)の構築作業ではないかと思います。この通過儀礼をどのように経験するかは人それぞれでしょうが、経験しないままに時を過ごしてしまうと、いま社会問題となっている「ひきこもり」「摂食障害」「社会適応障害」等の状態になってしまう可能性もあるようです。
 つまり、成人としてのアイデンティティー確立途上にある10代後半から20代の若者は、宗教的な世界に魅かれやすい、ということにもなります。カルト的な教団や悪質な自己啓発セミナーは、まさにその年代の若者をターゲットとして勧誘を盛んに行っているのです。
 ターゲットにされやすいもうひとつの属性もあります。それは中高年の、とくに女性です。なかでも病を患っている人や病を患っている家族を持つ人、子どもの問題や家庭不和で悩んでいる人たちが狙われやすいといえましょう。ここにも実はアイデンティティーの問題が関係してきます。健康や安定した家族という自己のアイデンティティーの拠り所となっているもののゆらぎによって、個人の精神状態はとても不安定なものになります。
 その心のすき間に、カルトをはじめとした擬似宗教などが入りこもうとします。連日ニュースとなっている旧統一教会をはじめ、教祖や管長が逮捕された法の華三法行や本覚寺・明覚寺などのように、霊障などを理由にお布施と称して多額の現金を脅し取る擬似宗教があとを絶たない理由なのです。
 私は、宗教とは「真の幸福を人にもたらすもの」だと信じています。とくに「物質的な条件とは関わりなく」人に幸福感をもたらしてくれるものでなければなりません。そこには他と比べる比較相対的な世間の価値観ではなく、絶対的な出世間の価値観が存在します。そのような観点を踏まえて、カルト性の高い教団や組織について判断するためのキーワードをいくつか挙げてみます。
「神秘体験」「金銭」「権力」「恐怖心」「排他性」「孤立」「依存」
 これらのキーワードは、当該の教団や組織に共通する特徴といってもよいでしょう。以下、参考となる事例等を挙げながら、一つずつ説明していくことにします。

◆神秘体験
「神秘体験」を重視する宗教は多くあります。比叡山延暦寺では、いまでも見仏(観仏)のための修行が行われています。仏を見ること、阿弥陀仏を見ることが実際の修行の深まりの一つの尺度とされているのです。
 仏を見たというある高僧に「その仏は幻影ではないのですか」と聞いたことがあります。すると高僧からは「幻影かもしれない。しかしその幻影を見ることが大切なのだ」という答えが返ってきました。見仏は長い修行の始まりに過ぎないということでしょう。
 ところが、未熟な修行者の多くは、この幻影にとらわれてしまいます。仏を見たことによって自らが悟ったかのような錯覚に陥ってしまうのです。仮にそれが幻影ではなく、真実の仏であったとしても同じことです。そこで慢心が生じた途端に振り出しに戻ってしまいます。いや、振り出しどころか負の世界に陥ってしまうことになります。
 オウム真理教の麻原の例がそれを端的に物語っています。麻原は自らの修行の中で、ある一定の神秘体験を経験していたのかもしれません。しかし、そこに慢心が生じてしまったがために、ヴァジュラヤーナという教えを作り出し、殺人へと突き進むのです。「魔が入る」という言葉がありますが、まさに変性意識の中に魔が宿るのでしょう。
 禅の世界には「仏にあえば仏を殺せ」という言葉があります。「空」を説く仏教では、仏さえもが空なる存在である。そして、実際に坐禅の深まりの中で、仏に出会うこともあったのでしょう。
 この変性意識下で起こるさまざまな出来事は、しばしばマインドコントロールに利用されます。オウムがそうであったように、薬物などを使って一種の神秘体験を経験させることは、人の心や精神をコントロールする上で重要な要素であるということを付け加えておきます。

◆金銭と権力
 人はある一定の環境に置かれると、多額の「金銭」をいとも簡単に差し出してしまいます。マインドコントロールや洗脳技術に長けた者の手に掛かれば、さほど疑いもせずに騙されてしまいます。
 そもそも、宗教とは俗世間とは異なった聖なる領域のものであるはずです。あるいは俗を含みつつ超越した存在です。金銭はその俗世間の価値観の象徴であり、俗世における欲望の象徴といえます。それがゆえに、古来仏教では、僧侶は直接手で金銭を受け取ってはならないという戒めもあります。
 オウムでは、出家の際に全財産を寄付させましたし、ステージを上げるためには、多額の金銭等が必要でした。旧統一教会では、霊障を払うといって多額の布施を強要していると報道されています。
「権力」もまた俗世間の価値観の象徴です。擬似宗教は自らを権威づけるために政治家をはじめとするさまざまな世間の権威的存在を利用しようとします。時には資金を使って、時には票田を提供する事によって......。もし教団の施設の中に、教祖が政治家や有名人と一緒に写っている写真が飾られていたとしたら、擬似宗教の一つである可能性があるかもしれません。
 そして、彼らは人を利用するばかりでなく、時として自分自身が政治に介入しようと試みます。オウムもまた自らが国会議員選挙に出馬していました。結局、彼らの野望は頓挫しましたが......。

◆恐怖心と排他性
「恐怖心」を煽って人の心を縛り付けるのも彼らの常套手段です。「この教えを信じなければ地獄に落ちる」と脅してみたり、「あなたの祖先が非業の死を遂げた。しっかり供養をしないと祟りがある」などと人の恐怖心をかき立てて、人の心を呪縛しようと試みます。そして、時には終末論を強調します。一九七〇年代に南米のガイアナで、教祖や信者の大量自殺事件を起こしたキリスト教系新宗教「人民寺院」もこの終末論を掲げていました。
 また「排他性」とは、「自分たちが一番えらい」「自分たちの信ずる教えが最高のものである」と標榜し、他の宗教を劣ったものだと声高に主張することです。排他性は権威性と密接に結びつき、教団外の人間のみならず教団内の人間に対しても一種のヒエラルキーを適用するようになります。そこにはピラミッド型の権威構造が必然的に生まれることになり、それはすなわち世俗の社会構造と何ら変わりはありません。
 排他性の作用の結果として、その教団に属する人びとは、自分たちの組織の中でしか生きることができなくなります。組織の内を善と見なし、組織の外を悪と見なす価値観を持っているわけですから、当然組織外の人からは相手にされなくなっていきます。
 外の世界から孤立してしまった人間は、教祖や教団へ依存せざるを得ません。人は社会的な動物だといわれます。何らかの社会形成を必ず必要とし、その中でしか基本的には生きてはいけません。彼らは、恐怖心や排他性など、心の中に楔を打ち込まれ、知らず知らずのうちに依存度を高め、囲い込まれてしまいます。
「自灯明、法灯明」すなわち「自らを灯とし、法を灯とせよ」と語ったのはお釈迦様です。しかし、カルトなどの悪質な擬似宗教では、あくまでも「教祖灯明、教団灯明」を旨とするのです。いかなる場合でも教祖の言うことが絶対であり、同時に組織の権威を強調します。そこには、教祖を頂点としたピラミッド構造の組織体系が存在します。
 さらに言うならば、これは軍事組織の構造や体質に近いものがあります。オウムを含めた国内外のカルト教団が、その末期には仮想の敵を想定し、武装化していったことも、ある意味では当然のことだったのでしょう。

◆宗教という枠組みを超えて
 宗教とは「真の幸福を人にもたらすもの」だと先に述べました。それは、深い精神レヴェルにおける「自己の確立」であり「自立の道」でもあります。繰り返し申し上げますが、これは「孤独」になったり「孤立」することとは明らかに異なります。真理(仏や神)に包まれた自己の「いのち」を観じるとき、「自他一如」「つながり」の世界が顕れ出てくるのです。
 ここに挙げたキーワードは、あくまでも参考でしかありませんが、それぞれの精神性の質を見分けるためにある程度役立つものではないかと考えます。自分が信じている宗教や所属する団体・組織が、これらの項目に照らし合わせて、どれほど当てはまるかよく考えていただければ、その精神性や健全性がそれなりに明らかになるでしょう。
 私は仏教徒を自負している人間ではありますが、実は、お釈迦様の教えをなるべく形としての宗教として捉えないようにしています。では、宗教でなければ何なのでしょうか? 私にとって仏教は「より良く生きるための道」です。イエス・キリストも「より良く生きるための道」を説いたのだと理解しています。それは同時に「より良く死ぬための道」でもあります。
 この「道」は、誰もが追体験可能なものといえましょう。再現性というその本質において、自然科学とも共通性があります。志を持つ誰もが、貧富や性別、年齢のいかんを問わずに追体験できるもの、真の幸福、悟りや救いへと導かれる道なのです。