HIV・AIDS

他人事だと思っていませんか―エイズ教育の現在―

ぴっぱら2009年5-6月号掲載
アーユス 枝木美香

◆増加し続けるHIV感染者

「いってらっしゃい。エイズに気をつけて」このメッセージの横には、貫禄のある男性がパスポートで目を隠しながら苦笑いしています。

これは、1991年に制作された、エイズ予防啓発のポスターです。インパクトはあるのですが、どうやら、このポスターはあまり評判がよくなかったらしいのです。

確かに、目が隠されているとはいえ、写真の男性の表情からは真剣さよりは軽さが伝わってきて、まるで「遊びに行ってくる」と言っているようですし、なにより、エイズは海外固有の病気であるようなイメージすら感じさせます。

ポスターの批評はさておき、これは当時の世評をとても端的に表しています。90年代初頭といえば、既に薬害エイズ問題もクローズアップされていた時期ですが、薬害以外でHIVに感染するというのはほとんどが海外での話と思われていたのでしょう。思い出せば、海外に行く友人に「変な病気にかからないように」と含み笑いをしながら言っていたのもこの頃でした。

2009年の今、日本の状況を見てみると、新規のHIV感染者数は年々増え続けており、2007年度はついに1000件を越え、1082件の新規感染が報告されています。そして、新規にエイズ患者と診断された(病気を発症した)412件と併せると、新規発生件数は1500件にものぼり、前年より142件の増加となっています。

特に日本国籍男性の感染者数が伸び続けており、海外で感染したのではないかというのはそのうちわずか4%ほどです(平成19年エイズ発生動向参照)。

日本におけるHIV感染の問題は、依然として重要な対策課題なのです。まず、簡単にHIV・エイズについての基礎知識をQ&A形式で記したいと思います。さて、みなさんの正解率はどうでしょうか?

◆エイズの基礎知識

Q1:エイズとは何ですか。
A:エイズ(AIDS)とは、後天性免疫不全症候群という病気の名前です。HIVというウイルスに感染すると、体の免疫系統が破壊されて病気への抵抗力を失います。その結果、さまざまな病気にかかりやすくなり、この、病気を発症した状態を「エイズが発症した」と言います。

Q2:HIVとは何ですか。
A:エイズを引き起こすウイルスの名前です。このウイルスに感染してもすぐにエイズを発症することはないために、HIVを抱えながらも病気にならずに暮らしている人は多くいます。このような人たちをHIV陽性者と呼びます。

Q3:どういうふうにHIVに感染するのでしょうか。
A:大きく分けて3つの感染経路があります。

●性行為時の精液、膣液、血液による感染
●薬害や輸血、薬物の回し打ちによる血液感染
●妊娠中、出産時、母乳による母子感染

Q4:エイズを治す方法はあるのでしょうか。
A:現時点では治すことはできません。しかし、HIVに感染してもエイズの発症を抑える薬はあります。抗レトロウイルス薬(ARV)と呼ばれるもので、何種類もある薬のうちの数種類を組み合わせて服薬することで、劇的な効果が得られます。副作用が強いのと価格が高いことが課題です。

Q5:HIV陽性者の血を吸った蚊に刺されるとHIVに感染しますか?
A:感染しません。蚊が吸う血液は微量のために感染力はありませんし、蚊は血を吸いますが次に刺す時は血ではない分泌液を出すのです。

◆タブー視される性教育

私は、かれこれ15年近くHIV・エイズ問題に関わっているのですが、その活動の1つが、年に一回行っている高校での授業です。1996年から1998年まで、「シェア」という保健活動を専門とするNGOのタイ事務所に駐在していた時に、農村でのエイズ予防啓発活動と、HIV陽性者の自助グループ活動に携わらせていただいたのがきっかけです。

さて、Q5についてですが、実は5〜6年くらい前にはほとんど聞かなかった質問でした。それは、誰でも知っていることなので、いまさら伝える必要もなかったからです。

高校におけるエイズ授業でも同じことで、蚊の話題で盛り上がることはありませんでした。しかし、今年は、「えーっ」の連続でした。ちょうど数カ月前に、前出のシェアと共同で東京都内の高校でエイズの授業を行ったところ、授業終了後のアンケートに、「蚊でうつらないとは驚きだった」という感想が数人から寄せられていたのです。

子どもたちに基礎知識がない、というのが講師側が受けた印象でした。授業の前後で簡単なテストを行ったところ、まあまあの正解率ではありましたが、「コップを共有するとHIVに感染する可能性がある」(正解は×)といった基本的な質問に限って正解率が低かったのです。

この原因の一つとして、生徒の半数以上が、今回の授業まで一度もエイズ教育を受けていなかったことが考えられます。90年代半ば頃は、薬害エイズ問題も絡んでエイズ教育が盛んに行われていましたが、ここ数年は性教育バッシングのあおり受け、エイズはもちろん、性教育そのものがしづらくなってきているのです。

たとえば、日本でのHIV感染理由の第一位は性行為ですから、もっとも有効な予防策は、性行為の際のコンドーム使用ということになります。しかし、学校教育の現場でコンドームの使い方を教えることはタブー。いや、「HIV感染予防にはコンドームの使用がもっとも効果的」と言うことすらできなくなってきているのです。

感染経路と症状だけを教えられて、予防策を教えられない子どもたちは、一体どうやって自分自身の身を守れるというのでしょうか。

「中・高校生はセックスなんてしていません」「性について必要以上に教えるから、寝た子が起こされるのです。過激な情報は不要です」「純潔を守ることを教えればいいのです」

など、性教育批判の声が聞こえてきます。しかし、子どもたちが直面している現実は、本当にそのようなのどかなものばかりでしょうか。HIV・エイズというと、身近な話とは思われないのかもしれませんが、HIVが性行為によっても感染することを考えると、性行為による他の性感染症や妊娠のリスクも考えられるのです。

◆問題をもっと身近に感じるために

エイズと同じように性行為で感染するクラミジアは、高校生の1割が感染しているという報告が出ています(厚生労働省科学研究班『性感染症の効果的な蔓延防止に関する研究』2004年度報告より)。クラミジアは症状が現れないことがあるものの、治療せずにいると女性の場合は不妊症などの合併症を引き起こす可能性もあり、大変危険な性感染症なのです。また、一緒に授業をしている高校教諭によると、ある都立高校の体育教諭が、女子生徒の中絶経験者と妊娠による退学者があまりにも多いために性教育を実施しようとしたところ、都教育委員会が介入し、カリキュラムは変更させられ、視察まで入ったと言います。

私たちの授業では、コンドームの使い方についても説明します。正しく使うにはいくつかのコツをおさえなければならず、感染防止のために必要不可欠なことなのです。

授業後のアンケートでは、「中学生の時に教えてもらいたかった」「知っていることが曖昧だったことに気がついた」など、知って良かった、もっと知りたいという記述が多いのです。子どもたちが「もっと早く知りたかった......」とならないことを願うばかりです。

知識を持つことは、自分の身を守るために重要です。HIVに関して言えば、どうやったら感染するのか、どうしたら予防できるのかをきちんと知っておく必要があります。

しかし、いくら知識があったとしても、自分が病気にかかる可能性があるかもしれないと認識したり、自分が病気にかかることで周囲の人たちとの関係性に影響が及ぶということまでを意識したりしない限りは、行動はすぐには変わらないのです。だから、エイズ教育をする時には、一人ひとりの問題意識が高まったり、他者との関係性を感じられたりという働きかけが重要になってきます。

私たちは、ゲームやグループディスカッションを取り入れたワークショップ形式で授業を行っています。ただ一方的に話を聴くだけでなく、それを自分の問題として捉え、感染者と自分が同じ時代に、同じ社会に生きているということを感じてもらわなければならないのです。これらのエイズ授業の手法は、すべてタイで学んだことを日本向けに応用させているものです。

◆タイでの取り組み

私がシェアに参加していた当時は、Q4に出てきた薬はまだ普及しておらず、HIVに感染することは、すなわち数年のうちに亡くなることを意味していました。

治らない病気、うつる病気......という絶望的なイメージがHIV陽性者への差別感情を助長させ、陽性者は村の中でみなひっそりと暮らしていました。しかし、いったん症状が悪くなるとそれは誰の目にも明らかになり、腐った魚を家に投げ込まれるなどのいやがらせや事件も時々起きていました。

そんな中、病院に診察を受けに来る患者さんたちを集めて、「自助グループ」が作られました。同じ悩みを抱えた者同士が交流することによって、参加する陽性者の人たちは回を重ねる毎に明るく前向きになっていきました。相手の話を聴き、お互いを受け入れあうという感覚が、生きる力を生んだのかもしれません。

その後、彼女たちはシェアの農村での活動地にも出向き、自分自身の体験談を語り始めました。苦しかったこと、悩んだこと、生きていこうと決心したこと......。元気な彼女たちを目の当たりにした村人たちも、「なんだ、みんな普通なんだ」と、陽性者が自分と同じような当たり前の生活の中で感染したのだと気づくようです。

タイでは現在、かなり治療状況が改善されていますが、お互いが支え合うことで生き抜いていた、当時のHIV陽性者たちの姿は忘れられません。

◆若者の関心を取り戻そう

さて、日本に話を戻しましょう。高校の授業の中で、HIV陽性者の手記を読んで感想をグループで話し合うことをしたのですが、一つの手記への高校生の反応は意外なものでした。

それは、Aさんが、その同僚にマッサージをしてもらった時のこと。同僚が冗談めかして言った「大丈夫だよ、俺、エイズじゃないから」という何気ない一言が、知らないながらもHIV陽性者であるAさんを傷つけた、という話でした。

これに対して一人の生徒が、「よくわからない。何でエイズなんて病気が、からかうネタとして会話に用いられるんだ」と言うのです。教室にいた多くの生徒も、そうだそうだと賛同したそうです。

良い意味で偏見がなくなっているのでしょうか。ひと昔前は海外から帰ってきて、「大丈夫、変な病気持って帰ってないから」などと冗談を言うこともよくありました。エイズが話のネタとしてピンとこないというのは、悪いイメージがないのか、それとも病気で人を笑ってはいけないというモラルが浸透しているのか......。

しかし、うがった見方をすれば、それだけエイズに関する情報が入ってきておらず、話題にすらならないということなのでしょう。HIV感染者の増加も、偏見が未だなくならないのも、すべてはエイズに対する関心や正しい知識が不足しているからに他なりません。

「いってらっしゃい。エイズに気をつけて」の悪評高いメッセージも、今は彼ら彼女らの横を素通りするだけなのかもしれません。