対人関係・コミュニケーション

「親ガチャ」社会からの脱却―社会の分断をどう止めるかー

◆生活が苦しい世帯の増加

 最近、「親ガチャ」という言葉を耳にすることがあります。硬貨を入れるとカプセルに入ったおもちゃが出てくる自販機、「ガチャガチャ」が語源で、何が出てくるか分からないことから、親ガチャは「親を選ぶことはできない」という意味で使われます。
 経済的に豊かではない家庭に生まれたことの嘆きを、「親ガチャにはずれた」などと言って、若者が自虐的につぶやいたことが始まりのようです。
 親世代からみても、「親ガチャ」は何ともやるせない気持ちになる言葉です。多くの親は、一生懸命に働いて子どもの衣食住を満たし、学費を稼ぎ、子どもをエリートにしようとまでは思わなくても、良い教育を受けさせて「人並みの」人生を送ってほしいと願っているからです。
しかし、こうした言葉が流行る背景には切実な現状があります。たとえば、給与所得者の平均給与は、1990年代後半をピークに減少傾向にあります。日本のGDP(国内総生産)は世界第3位ですが、人口の影響を廃した「国民一人あたりGDP」はというと、2019年のデータでは、OECD37カ国中19位という低い順位です。最も順位が高かった1996年の6位と比べてみても、そのぶりは明らかです。
 また、年収400万円未満の世帯の割合も増加しています。2019年の「国民生活基礎調査」によれば、全世帯のうちの半数近くが世帯年収400万円未満です。
 所得金額ごとの世帯数の割合を見てみると、多い順から「200~300万円未満」が13・6%、「300~400万円未満」が12・8%、「100~200万円未満」が12・6%となっており、平均所得金額(約552万円)以下の割合は 61・1%に及んでいます。
 この世帯年収は税金や社会保険料を含むため、手取りはさらに低くなります。子どもを育て、家を買い、ゆとりある暮らしを営むことが果たして可能でしょうか?
 
◆子どもたちの閉塞感

 「子どもの貧困率」については、16・3%という高い割合となっていた2012年と比べると、2018年は13・5%と、数字の上では若干、改善傾向にあります。
 しかし、「ひとり親世帯の貧困率」は48・1%と、依然として深刻な状況です。世帯別の生活意識を見ても、母子世帯の実に9割近くが「やや苦しい」「大変苦しい」と答えています。
 これらの調査はコロナ禍以前のものであり、長引く自粛生活で収入減に見舞われた世帯が多かったことを考えると、困窮の状況はさらに悪化している可能性があります。
 「親ガチャ」という言葉がテレビのワイドショーなどで取り上げられた時には、「不遇は自分の努力不足、親のせいにするな」と批判の声も寄せられていました。しかし、保護者の年収と子どもの成績に相関関係が認められていることや、保護者の年収が高いほど子どもの4年制大学への進学率が上がることなどが複数の調査で明らかになっています。
 「親ガチャ」は、本人がどんなに頑張っても、生まれた境遇次第では夢に向かうためのスタートラインにすら立てないという閉塞感を表した、時代を象徴する言葉とも言えるのです。
 そうした子どもたちの「あきらめ」を、どうすれば希望へと変えられるか、そして多くの人にとって余裕ある生活を送ることが難しい今、どうすれば皆が安心して暮らせる社会を実現できるかを考える必要があります。

◆教育費の家計負担が多い日本

 子育てにお金がかかる、ということで少子化が進んでいる日本ですが、親の負担が最も大きいのは教育費です。日本は、大学などの高等教育にかかる費用がOECD加盟国のなかで最も高い国の一つだと言われています。
 その上、高等教育に対して国が支出する教育費の割合が、日本は最低水準となっています。それだけ家計負担は大きくなっており、OECDの最新データ(上図)では、日本の、高等教育にかかる費用の家計負担の割合は52・7%と、主要国の中で最も高くなっています。「大学に行かせたければ自助努力で」というのが、日本政府の基本的な方針です。
 北欧の国々は「高福祉・高負担」の国として知られていますが、ノルウェーの3.8%、スウェーデンの1.1%という数字を見ると、日本の親たちは、ため息しか出ないのではないでしょうか。
 また、大学等へ進学させるため、多くの家庭が頼りにするのが奨学金です。現在、大学や大学院に通う人のうち、実に二人にひとりが何らかの奨学金を利用しています。
 しかし、日本の奨学金はその大半が「貸与型」であり、返済不要の「給付型」の割合は他の国と比べても極端に低いことが分かっています。そして、「貸与型」の約4割には利子も付きます。
 卒業後、新卒で就職できなかったり、非正規雇用など安定した職に就くことができなかったりすると、卒業から何十年もの間、借金の返済に苦しむ可能性も出てくるのです。
 国は、2020年から低所得者世帯を対象とした「高等教育の修学支援新制度」(給付型奨学金の拡充と授業料の減免制度)を開始しました。文部科学省によると、スタートの年に対象となったのは約27万人で、対象者へのアンケートによると、「この制度がなかったら進学をあきらめていた」という学生が34・2%にのぼったといいます。
 困窮している家庭の子どもたちにとって歓迎すべき制度であることは間違いありません。しかし、対象とならない多くの家庭も奨学金を頼っている現状を重く受け止め、国は教育費の公的支出を増やして、すべての子どもに恩恵のある制度を創出してほしいものです。
  
◆不公平さを嘆く声

 先の衆院選後、政府は経済対策として18歳以下の子どもに一人10万円相当を給付するというプランを打ち出しました。当初はすべての子どもを対象としていましたが、その後、親の年収によって所得制限を設けることが決定しています。
 これを報じたネットニュースのコメント欄には、膨大な書き込みが寄せられていました。「子どもの未来を応援したいなら、すべての子どもを対象とするべきだ」という、所得制限を設けることの是非についての意見もありましたが、気になったのは、「子育て世帯だけがなぜ優遇されるのか」という恨み節、「の声」が多数を占めていたことです。
 「こっちは死ぬほど働いてやっと納税しているのに、18歳以下というだけで10万円ももらえて、あまりにも不公平」「経済的に子どもどころか結婚もあきらめているのに、税金や保険料を搾り取られながら、なぜ人の給付を賄わなければならないのか──」
 未来を担う子どもは大切で、社会全体で支援するべきという文脈は、世の多くの人が理解していることでしょう。しかし、暮らし向きがじわりじわりと苦しくなっている人が多い今、「他人の得」に心穏やかではいられず、優しい眼差しを向けることが難しくなっているのではないかと感じます。
 子どものいる保護者に対して定期的に行われているある調査でも、所得による教育格差が生じることに対して、「問題がある」とした人はこの10年で減少し、「やむをえない」「当然だ」と答える人が増加していました。
 所得の低い親の子どもは低い教育に甘んじるのもやむをえないと、親自身も格差を許容する傾向にあるのです。うがった見方をすれば、所得が低いのはその親の努力不足であり、良い教育を受けさせたければ(自分のように)必死で頑張るべきだという「自己責任論」を垣間見ることができるのです。
 
◆分断社会「3つの罠」

 一体どうして、他者に優しくない、余裕のない空気が充満してしまっているのでしょうか。慶應大学教授で財政社会学者の井出英策さんは、著書『18歳からの格差論──日本に本当に必要なもの』で、私たちの社会が「3つの罠」にはまっていると説明しています。
 一つ目は「再分配の罠」です。経済の停滞から中間層が貧しくなるなかで、生活保護をはじめとする貧しい人の支援を大切にすればするほど、負担者となる中間層の痛みが増し、貧しい人への不満や反発が出てきます。
 二つ目は「自己責任の罠」です。多くの国では教育や子育て、老後にまつわる費用は国が税金から出してくれますが、税金の負担が軽い日本はそれらを自分で賄わなければなりません。しかし、所得は減り続けて身動きがとれず、苦しみが生まれています。
 三つ目は「必要ギャップの罠(世代間対立)」です。たとえば、高齢者のために多くの税金が投入されると聞けば、日々の生活不安や子育ての負担に苦しんでいる現役世代は不公平感を感じます。世代間の対立が生じているのです。
 井出さんは、現代の日本にある問題は経済の問題だけではなく、人びとがつながりの危機に直面した、分断社会となっていることそのものではないかと警告しています。

◆全体の幸せを目指して

 それでは、どうすれば社会の分断は解消されるのでしょうか。井出さんが提唱するのは、税金を財源として、所得は関係なくすべての人びとに、教育、医療、介護、子育て、障がい者福祉といったサービスを提供する「ベーシックサービス」という概念です。困窮する人だけに支援を集中させる方法では、税金が使われる以上、それ以外の人は不公平を感じます。また、支援される側の人たちも、負い目を感じたり自己不全感を抱いたりしやすいものです。
 そこで、消費税の税率を上げるなどして財源を確保した上で、あらゆる階層の、すべての人びとが受益者となれるよう、社会保障という形で所得の再配分を行い、貧富の差を縮めようというのです。病気をしても、失業しても、歳をとって働けなくなっても安心して生きていられる仕組みを作ろうというのが、井出さんの主張です。
 これは、北欧諸国の社会保障モデルに近いものかもしれません。社会保障をあまりに手厚くしてしまうと、人びとが安心しすぎて競争力が失われると懸念を抱く人もいますが、たとえば、スウェーデンでは、GDPこそ日本より下位ですが、「国民一人あたりGDP」は、実は日本よりも上位にあります。また、時間当たりの労働生産性もスウェーデンが日本を上回っているのです。
 社会のセーフティネットが充実しているからこそ、人びとは不安なくチャレンジができるのかもしれません。
 人は、そもそも弱いものです。順風満帆な人生を過ごしていたとしても、病気、失業、倒産、離婚など、人生の歯車がほんの少しでも狂えば、たちまち困窮に陥ります。「ガチャガチャ」のように、運不運に左右されることも人生の常です。誰もがリスクを抱えて生きています。
 人は弱いからこそ身を寄せあい、社会を築きました。社会のつながりの中で誰かを切り捨てれば、その影響はきっと自分にも返ってきます。
 『維摩経』という経典には、「衆生病むがゆえに、我また病む」とありますが、誰かが不幸せであれば、全体の幸せはなく、自分自身の本当の幸せにもたどり着けないのです。この息苦しい分断社会を変えられるかは、私たちが互いに自分事として苦しい人びととともに行動するかにかかっているのです。