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家庭・暮らし
「毒母」と呼ばないで―依存する親とならないためにー
ぴっぱら2014年11-12月号掲載
◆母がしんどい
9月、東京都内である催しが開催されました。会場は、入場制限をするほどの混雑ぶり。会場に詰めかけていたその9割は女性です。登壇した女性たちはマイクを手に、それぞれ自分のことを語りはじめました。
「母は子どものころから、やることなすこと私の行動に指図をしてきました。最近、家を出て自活しようと思い準備をしていますが、『お前みたいなだらしない子にそんなことができるわけがない。ママから離れて一人でなんて暮らせるわけがない』と繰り返し言われ続けています。くやしいのですが、そう言われ続けていると不安になる自分もいて、なかなか家を出られずにいます」
「結婚した後も、自分との同居を強要する母。それを拒否していると、家に毎日電話がかかってくるようになりました。『具合が悪い』『足が動かなくなった』『もう生きていたくない、死にたい』などと言われるので、その度に様子を見に行くのですが、どこも悪くなくピンピンしていて、悪びれることもありません。しかし、用事があって行かないなどと断ろうものなら、半狂乱になって怒ります。無視したいのですが、なんとなく罪悪感があり放っておくこともできず、ノイローゼになりそうです」
催しでは、深刻な体験談から笑ってしまうようなエピソードまで、さまざまな話が紹介されました。そのたびに、小さな共感の輪が会場中に広がっていきます。
「毒母」について語ろう、というこの催しは、子どもを振り回して支配するようにふるまう母
や、常軌を逸したように精神的依存を深める母など、困った母親に悩む、子どもたちの分かち合いの会だったのです。なかには、この集いのために飛行機で駆けつけた人までいました。
参加者の話として共通していたのは、母がどんな異常とも思える行動や言動をしていても、本人にはまったく自覚がないということです。「わかってもらうのは絶対に無理です」と、皆一様にあきらめ顔。娘たちの苦悩は深いようでした。「毒母」とは一体、どのような母なのでしょうか。
「毒母」という言葉の元になったと言われるのが、アメリカの精神医学者、スーザン・フォワードの『毒になる親――一生苦しむ子供』という本です。
この本のオリジナルが日本で出版されたのは、今から10年以上前のことですが、日本でも、親との関係で悩む人たちの間で大きな反響を呼びました。
育ててくれた親を大切にしなければならないのは当然のこと。でも、自分の苦しさは一体なんだろう......。そう感じる多くの人にこの本は繰り返し読まれ、自分の感覚を肯定し、苦しさから解放してくれるきっかけとなったようです。
本によると、毒になる親というのは、「子どもに対するネガティブな行動パターンが執拗に継続し、それが子供の人生を支配するようになってしまう親(中略)子供に害悪を及ぼす親」であるといいます。そしてそれは、いくつかの類型に分類されると紹介されています。
◆危険な親のパターン
わかりやすいタイプとしては、「コントロールばかりする親」がいます。「あなたのためを思って」と干渉し続けたり、「何もできないくせに」と非力感を子どもに植えつけたりして依存させようとします。これは、子どもの親であることにしか自分のアイデンティティーを見出すことができない親でもあります。子どもの成長により自分が必要とされなくなることを恐れ、しつこく干渉してコントロールしようとします。
また、「義務を果たさない親」もいます。自分自身が情緒不安定だったり、こころの健康が損なわれていたりするために、親の役割を果たせない親のことです。なかには、自分が必要としていることを子どもに満たしてもらおうと考える親すらいます。そして離婚など、自分自身の理由のために、フォローすることもなく子どもの前から姿を消してしまい、子どものこころに傷をつける親もいます。これらは、広い意味での育児放棄といえるでしょう。
より虐待に近いタイプとしては、「残酷な言葉で傷つける親」がいます。子どもの身体的特徴や知能、能力、人間としての価値などについて、しつこく日常的に、言葉による攻撃を与える親のことです。これは、子どもをけなすことで自分の優位性を示そうとする行為だったり、単に子どもを自分自身の鬱屈した気持ちのはけ口にしようとするケースだったりしま
す。
どのパターンも、精神的に大人になりきれていない親の姿を感じさせます。先ほどの「毒母」と同様に、本人に自覚がない人も多いそうですから恐ろしいことです。その上、子どもに肉体的な傷を負わせるわけではないので、こうした親の言動や行動が虐待であるとは、外からは認識されづらいのです。
日本は、親を敬い、年長者には敬意を払うべしという価値観が強い国です。親に対する不満やストレスを他者に訴えようとしても、「親のことを悪く言うもんじゃない」とたしなめられてしまったり、親自身も、対外的には普通の顔を見せているので、訴えたところでなかなかわかってもらえなかったりします。何より子ども自身も、育ててくれた親に怒りを感じたり疎ましく思ったりすることに罪悪感を感じることが多く、解決されない悩みは、子どものこころに暗い影を落とします。
子どもにとって、ある一定の年齢に達するまでは、親の言うことがすべてです。毎日のように繰り返し行われる親からの「攻撃」は、知らずしらずのうちに子どものこころを蝕んでいきます。精神的な不安定や自己破壊的な傾向、対人関係の困難など、一生にわたる苦しみを子どもにもたらすのです。
早期にその兆候をとらえて、外部から働きかけることが必要ですし、大人であっても、深刻
なトラウマが感じられるようであれば専門家の門をたたくことをおすすめします。
◆時代が求めた「他者優先」
虐待する親は、自分自身も虐待されてきた経験があることが多いとは、よく言われることです。また、親自身が何らかの発達の偏りを抱えているということも考えられます。
しかし虐待までいかないまでも、ここ数年、「母が重い」と、テレビなどでも「困った母」に関する特集が頻繁に組まれていますが、「しんどい」親に悩まされていると訴えるのは、なぜか娘から母親に対するケースが多いようです。これは、一体なぜなのでしょうか。
その鍵は、母たちに期待されてきた「他者優先の生き方」にあるのではないかと、社会学者やカウンセラーは指摘します。「夫は仕事」「女は家事と育児」といった家庭内分業の考え方が、かつては、広く家庭の標準的モデルとして奨励されてきました。いま、大人になった娘たちに「毒母」呼ばわりされている母の多くがこの様な環境の中で母になり結婚しました。
母となった女性は、子育てという重責をほぼ一人で担わなくてはなりませんでした。大家族に嫁いだ女性であっても、働き手としての「嫁」の役割を果たし、舅や姑に仕えながら子育てに取り組んできました。自分のやりたいことを犠牲にして、子どもに尽くすことが求められてきたのです。
昨今よく問題になる「育児ストレス」が母たちの時代になぜ問題とならなかったかといえば、子育ての苦労は母親にとって「当たり前」のものだったからです。こうした生活を可能にしているのは、自分のことを二の次、三の次にする「他者優先」の生き方といえるでしょう。
母の幸、不幸は、自分の意思とは関係なく、育った環境、嫁いだ家、嫁いだ相手などによって決定されました。自分が女性であるために、進学や自分の夢をあきらめさせられてきた母たち。それなのに、家庭に入ってみれば、自分を押し殺し、他者を優先する生き方を求められます。そしてそれは、母の嘆きや不満、不機嫌となって表され、はっきりとその中身が語られないまま娘にぶつけられます。娘はそうした母の思いに押しつぶされていくのです。
「私はあなたのために我慢してきたのよ」と言ってはばからない母がいます。子どもは、その言葉に違和感や憤りを感じつつも、母は自分のために犠牲になったのだと思わされ、深い罪悪感を植え付けられることになってしまうのです。
◆娘へのアドバイス
このように、母の時代は、どうせ嫁に行くのだから女に教育はいらない、などと言われてしまう時代でした。自分がなしえなかった大学への進学に輝かしい仕事での成功......。母は自分の人生を再び生きなおすかのように、娘をたきつけて自分の思い通りに進ませようとします。投影する相手は、同性である娘でなければなりません。「あなたのためよ」と娘をあやつり、もし反論されようものなら「あなたのためを思っているのに......」と自分を被害者にして脅します。自分を犠牲にして(と思い)育んできた娘です。娘は私と一心同体。わかってくれるだろう、いや、わかってくれるはず......。母はそうして娘に依存していくのです。
娘がそのレースを降りたいと言ったところで、母が納得するはずがありません。これは母の、自分の人生に対する復讐劇なのです。「あなたの幸せがママの幸せよ」と、よき母である自分に酔いしれながら、こうしてひとりの「毒母」が誕生してしまうのです。
「毒母」をもつ娘へのアドバイスとして、カウンセラーの信田さよ子さんは、「自分には母の思いを全うしなければならない責任などないことを自覚しましょう」と語ります。母との関係の不健康さを自覚してしまったら、まずは怒りと罪悪感とを吐き出し、自分のこころを守ることが大切なようです。そして、できれば同じ悩みを共有できる仲間を作り、新たな気持ちで、自分が幸せに生きることを目指していくべきだといいます。母の問題は、母にしか解決することができないからです。
◆親が気をつけるべきこととは
「自分がこういう親になったらどうしよう」と心配になる方がいるかもしれません。親としての役割を果たしながら、子どもとのよい関係を築くには、どうしたらよいのでしょうか。
ひとつには、「子どもと自分との境界をはっきりさせること」が肝心です。カウンセラーの加藤伊都子さんによれば、子どもが小学校中学年頃になっても、四六時中子どものことを考えているようなら要注意だといいます。あまりにも子ども一色となってしまうようであれば、「夫」「仕事」「趣味」など、子ども以外のほかの人や、自分がやるべきこと、自分を楽しませることにも少しずつ目を向けるのがよいそうです。
さらには、「自分の人生に責任を持つ」ということを徹底して自分に問うていくべきでしょう。親には、ある年齢までの子どもを養育する義務がありますが、子どもには親の幸せへの責任はないのです。子どもに恨み言を言わずに済むように、自分の人生を大切に生きることが、自分と子ども、そして周囲の人の幸せにつながります。
どんな親であっても、親はその親なりのベストを尽くしています。完璧な人間などいないように、完璧な親もいません。大切なことは、他人や世間の価値観にとらわれず、比べず、自分自身のこころの幸せを見つめてみることではないでしょうか。
苦しみは執着心から生まれます。行き詰ったときは、冷静に自分と対話してみましょう。きっと、新しい光景が広がってくることでしょう。