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家庭・暮らし
原発事故を子どもと共に生きていく―福島の子どもは、 いまー
ぴっぱら2014年5-6月号掲載
福島県伊達市 龍徳寺住職 久間泰弘
◆2ヵ月目の決断
あの震災から3年が経ちました。3年という時間を振り返る時、それこそ数え切れないほどのさまざまな感情がわいてきます。いまでも、あの時の判断は良かったのか、間違いではなかったのか、子どもたちの顔を見るたびに、その是非を誰からともなく問われているようです。
2011年3月11日以降、福島県伊達市にある私の寺(家)は、全国から集まってくるボランティアの拠点になりました。その当時3歳だった娘は、事情が分かるはずもなく、日ごとにその顔ぶれが替わる大勢のボランティアに目を丸くしていました。
原発事故から約2カ月が経過した2011年5月2日。私と妻は、当時もいまも明確な解答が出ないままですが、何回も話をしては黙り込み、話をしては暗澹たる気持ちになる中、家族を盛岡へ避難させることに決めました。私と寺に残ることになる両親は、この決断に、特に何も言葉を差し挟まなかったように記憶しています。
こうした決断に至るのは決して簡単なことではありませんでした。毎日、大人は娘に向かって「なるべく外に出ないで!」「マスクしなさい!」など声をかけます。子どもは外で遊ぶのが〝当たり前〞なのに、娘はある日突然に訳も分からず、いままで良かったこと、いままで当たり前だと思っていたことができなくなってしまいました。
当時、私たちの暮らしていた寺の境内地の空間線量は、除染前で毎時0.5マイクロシーベルト(ICRP:国際放射線防護委員会が定めている年間1ミリシーベルトの約5倍の線量)でした。
子ども自身のストレスは相当なものでしたが、本当はそれを言いたくない大人も、理不尽な感情と苛立ちを抱えたままに、放射能の子どもへの影響を心配するため、どうしても声が大きくなってしまっていました。
子どもも大人も悪循環の中で疲弊していく様子をみて、私は次のように考えました。
いままで、祖父母、父母と一緒に楽しく暮らしてきた娘を、母娘で知らない、しかも決して近くない土地(福島→盛岡)に避難させ、家族と別れて暮らすことによって、娘自身に精神的不安定さが出てくることは避けられないだろう。でもこのまま、娘の精神的ケアを第一に考えて一緒に暮らし続け、放射線被ばくの影響が彼女の身
体に出てしまったら一生取り返しがつかない。
彼女は私たち家族の娘でもあるが、それ以前にその命と生活を尊重されるべき〝一個の人格〞である。その人生を一人で生きていくわけではなく、大勢の方とのご縁を結びながら成長していくもの。今後、彼女が精神的不安を抱えながら成長していくことになったとしても、尊いご縁の中で生きていくことができる。親としては、まず彼女の身体的ケアを第一に考えての決断でした。
◆「いつまで一緒にいるの?」
避難当日の朝、寺のご本尊様に家族全員でご挨拶し、引越しの荷物を積み込んでいよいよ出発するという時に、私の甥っ子が、「愛弓ちゃん(娘)のこと忘れないよー!」と大きい声で叫んでいました(その甥っ子も、この後に向こう2年間、山形県に家族で避難することになりました)。
後に聞いた話ですが、車が走り去った後、私の母は甥っ子を強く強く抱きしめていたそうです。また母は避難前日の夜、家族が寝静まってから一人風呂に入っていたとき、二人の孫が原発事故によって離ればなれになってしまうことが、寂しい、悲しいというのではなくただただ悔しくて、湯に浸かりながら大声を出して泣いたとも聞きました。
その日、私と妻、そして娘の三人は、盛岡の避難先に到着してすぐに荷物を搬入し、役所に転居の各種申請をしに向かいました。妻がその申請をしている最中に、私と娘は、市役所裏の中津川の川辺で、これから当分持つことができない二人きりの時間を過ごしていました。娘は、次の日に私が福島に帰ることを知らずに、しかし、いつか自分を置いて帰るのだろうと薄々感づいていたのか、「パパはいつまで一緒にいるの?」と何度も何度も、私に向かって訊き返していました。
私自身、この震災と原発事故を経験した中で、家族についての話題を思い出し一番辛くなるのが、この時の娘の表情です。
その後、娘は盛岡市内の幼稚園に入園し、都合2年間お世話になることができました。その幼稚園では、福島県からの避難者だということをよくご理解下さり、変に特別扱いをすることもなく、地元の子どもたちと一緒に対応していただきました。母子ともに非常に安心した、と妻が申していたのが印象に残っています。
とはいえ、父親である私は、寺務と災害復興支援活動によって、その後から盛岡へは月1回程度行ければ良い方となり、心配していた娘の精神的不安が、やはり少しずつ現れてきました。
◆見えないものをまとったまま
震災後、そして避難以降、娘の具体的な変化としては、暗所を極度に怖がるようになったこと、地震(余震)で身体が硬直すること、トイレに一人で行けなくなったこと。また理由もなく急に怒り出したり、物に当たったり、集中力が散漫になったり。母親には反抗期というより、何かにつけ抵抗するようになったりしました。
そして、親として一番心配になったのが、幼稚園に行きたくないと言い出したことでした。私は、緊急に盛岡へ向かい、娘と話をして確認をすると、特に園でイジメられた訳でもなく、彼女の中でやはり寂しい気持ちが一杯になってしまっているようでした。私は娘に、なかなか会えない事について謝罪し、その夜は布団を並べて遅くまでおしゃべりしながら眠りにつきました。
この後も、もう帰りたいという子どもと、戻したくない(戻せない)という親のやり取りが続く中、私の両親も盛岡への「孫支援」に時間をみつけては赴いてくれるようになりました。
その時の思いが、私の母の詩に綴られています。
「盛岡の駅で」
連日 テレビのニュースは 原発事故のことばかり/
目と耳をふさいで この地から逃れるように新幹線に乗る/
北へ向かって走る車窓から見える風景は 私の住む福島と何の変わりもない/
山があり その麓には青田が広がり そして 川が流れて.../
ちがうところは ただ一つ 拭い去ることのできないものに 包まれてしまったこと/
私も見えないものをまとったまま 盛岡で降りる/
改札口で待っていたのは 避難している孫の愛弓 抱き寄せると/
身体から見えないものが 溶けていくようだ/
強く 強く抱きしめると 心に沈んでいたものも 溶けていく
(平成23年度 第64回福島県文学賞受賞作品)
家族ぐるみの対応が何とか功を奏したのか、娘は途中で挫折することなく幼稚園生活を送り、無事卒園することができました。現在は、福島県伊達市から車で約1時間の宮城県柴田町に2013年に転居し、私と妻、娘と、2012年5月に盛岡で誕生した長男との家族4人で暮らしています。
一緒に暮らすようにはなりましたが、娘の精神的不安は無くなっていません。先にあげた幾つかの行動で改善された面もありますし、一方でより酷くなったものもあります。妻との、娘の毎日の行状確認が、何より大切な日課となっています。
◆子どもたちのことを忘れないで
これまで、私の娘に関する話題を紹介してきました。当事者にとっては、それなりに大変な日々です。しかし福島では、家庭(仕事)の状況、経済的理由などから、県外や放射線量が低い地域へ避難させたくてもさせられない家庭があります。
こうした方々の不安と憤りは大変なもので、国や東京電力への怒りは当然ながら、時に私たちのような家族を県外に避難させている者に対しても、「あなたたちは良いね」「自分たちだけ避難できれば良いのか」などという言葉が出てきます。決して前向きでない、その言葉を発しなければならない気持ちが痛いほど分かるからこそ、それを引き受ける私たちは、余計に傷つくことがあるのです。
震災と原発事故から3年が経過しました。しかし、被災地福島にはまだまだ多くの問題が横たわっています。国や東京電力からの金銭での賠償問題によって、地域の分断や感情の亀裂が発生しています。「避難/残留(帰郷)」「避難可能/不可能」「有補償/無補償」「外で遊ばせる/遊ばせない」「地元の産物を食べる/食べない」などの、家族間における認識差と軋轢が生じています。
さらに、子どもたちは原発事故後、外部被ばく防護のために野外活動の制限と限定的空間での生活を強いられ、食物摂取による内部被ばくの恐怖
に苦しんできました。その結果として、体力低下とストレス増加が継続的な問題となっています。
また、いわゆる自主(母子)避難の影響は、二重生活による経済的負担、ストレスによる虐待の増加、離婚問題、県外避難者と県内に残留した人との溝などとなって私たちを苦しめているのです。
私たちが忘れてはならないのは、社会的ストレスによって最終的に影響を受けるのは、いつも子どもだということです。昨年には、福島県内の子どもの35%で甲状腺腫瘍が認められ、福島市内の子どもの尿からセシウムが検出されているという報道がなされました。子どもたちは不安なのです。悲しいのです。そして、苦しいのです。今までの当たり前の生活を返してほしいのです。
子どもたちのこころの復興には、長い長い時間がかかるでしょう。今回の私のお話だけでは、その苦悩をすべて伝えることは叶いませんが、読者の皆さまにお願
い致します。どうか、福島のことを、子どもたちのことを忘れないで下さい。そして、復興への、子どもたちへの思いを、皆さまの周囲の人びとに繋げて頂きたいと思います。このことを最後にお願い申し上げて、筆を置かせて頂きます。ありがとうございました。合掌
「見通しの立たない」福島の苦しみ
原発事故に伴う福島県内の避難者数は、現在約14万人弱。このうち、18歳未満の子どもの避難者数は3万人弱と言われています。そしてその子どもたちのおよそ半数が、久間さんのお子さんのように県外での生活を余儀なくされています。
震災から3年が経ち、原発事故にまつわる報道は目に見えて減ってきました。しかし、原発に近い地域で暮らす子どもたちとそのご家族は、放射線という目に見えない脅威にさらされ続けているのです。
原発事故で被災した方の健康被害を防ぎ、生活を支援する、通称「原発事故子ども・被災者支援法」が、議員立法として2012年6月に作られました。しかし、成立から1年以上、支援の前提となる基本方針が決まらず、昨年10月にようやく閣議決定された方針は、支援対象の地域があいま
いな上に、自主避難者への支援施策が脆弱なものであるなど不十分で、被災した方の希望が反映されたものとはとうてい言えません。
子どもの被ばくに関する調査も進められていますが、専門家によって意見が分かれていることを受けて、政府は相変わらず楽観的な見解をくり返しています。
こうした「あいまいさ」「見通しの立たなさ」が、これまで十分すぎるほどに我慢を強いられてきた福島の方々を、いっそう苦しめています。
特に、子どもの成長にとって、一日一日の過ごし方が大切であることは言うまでもないことです。根拠に乏しい安心宣言をただ流布するのではなく、リスクがゼロでない限りは、予防原則を貫いて避難を促し、支援を断行していくべきでしょう。
また、子どもの立場に立ってみれば、外での遊びや運動が制限されてしまうこと、そして何より、愛する家族と離ればなれで過ごさねばならないことは、本来保証されるべき人権が奪われていることにほかなりません。
子どもたち、そして被災した方の声に耳を傾け、それぞれの選択が尊重されるような、きめ細やかな支援の実施が求められます。(Y)