仏教者の活動紹介
お寺は、生きている人のために ー光源寺ー
(ぴっぱら2016年1-2月号掲載)
長崎は、坂の多い町だ。長崎駅を背に街を眺めれば、険しい角度の斜面に沿って建物が建ち並ぶ様が見える。地元の人から見れば当たり前なのかもしれないが、遠くから訪れた者にとってはどこか不思議な光景だ。
しばらく市電に揺られると、小川に沿って石造りの古い橋が連なっている光景に出会う。市内を流れる中島川には、寛永年間に唐の僧によって最初の橋が架けられて以来、道路筋のほとんどに石橋が架けられたのだという。二連のアーチが美しい、国の重要文化財でもある眼鏡橋をはじめ、苔むした小さなアーチ橋が連なる様は、マンションなどが建ち並ぶ街中でありながら、突然違う世界にタイムスリップしたかのようだ。
川辺から細い坂を上ると、お寺の山門が目に飛び込んできた。山門をくぐってもまだ急な勾配が続き、石段を上がると、目の前にようやくお堂が見えてくる。
◆子どもとともに100年以上
ここ光源寺は、寛永8年に創建された浄土真宗本願寺派のお寺である。母親の幽霊があめを買って赤ん坊に与えていたという民話「産女の幽霊」に登場するお寺だ。
いまでは、明治時代から続くお寺の日曜学校「光源寺ひかり子ども会」でも、地元でその名が知られている。日曜学校創立100周年を迎えた2009年には、卒業生の協力のもと、市内にて「ひかり子ども会号」の路面電車を走らせるなどして、盛大に100周年が祝われた。
創設者の越中聞信さんは、光源寺の前住職、楠達也さんの父にあたる。聞信さんは日露戦争が終わり、街が落ち着き始めた明治42年、ひかり子ども会の前身である光闡日曜学校を始めた。当時は150人もの子どもたちが毎週日曜日に光源寺に集い、お経をとなえ、仏教讃歌を歌い、絵本の読み聞かせに夢中になったそうだ。
その後、昭和に入ると、日曜学校は楠さんの兄である越中哲也さんに引き継がれる。哲也さんは京都の龍谷大学で青少年教化を学び、日曜学校に生かしていった。娯楽らしい娯楽のない戦前の子どもたちにとって、紙芝居やゲームは心躍らせる楽しみとなっていた。
戦前、この地では光闡日曜学校が始められたことをきっかけに、近隣のお寺でも日曜学校が盛んに行われるようになったそうだ。しかし、子どもの数が減るにつれて実施する寺院は減り、現在も続けているところは、ごくわずかとなってしまった。
戦後になって、光闡日曜学校は名称を「ひかり子ども会」に変え、現在に至っている。昭和32年からは楠達也さんが指導者となり、今では、ご子息で現住職の直也さん、寺族の皆さんとともに、一丸となって子ども会を盛り立てている。
◆生きている人にみ教えを
現在、ひかり子ども会は毎週土曜日の夜に行われている。参加者は幼児から小学生までの、15~20人ほどの子どもたちだ。夜ということで幼い子どもはお母さんに連れられながら本堂にやってくる。開始の合図はお寺の鐘だ。遊んでいた子どもたちは鐘の音を聞くといっせいに阿弥陀様の前に集まり、姿勢を正す。一緒にお経をとなえて、仏教讃歌も歌う。「仏の子は、素直に教えをききます。仏の子は、かならず約束を守ります――」。子どもたちの誓いの言葉が夜のお堂に響く。
開始の時間が日曜の朝から土曜の夜になったことをのぞけば、光闡日曜学校の頃から、これらの流れはほとんど変わっていない。子どもたちの曾祖父、曾祖母が子どもだったときと同じように、子どもたちが阿弥陀様の前で合掌しているかと思うと、継続することの尊さを感じざるを得ない。
「昭和30年ごろには、近くの小学校に3000人くらいの子どもがいたので、境内は、それはそれはにぎやかでした。でも、時代とともに人数が減り、一時はなんと、子ども会に来る子どもがたった一人になってしまったこともあります」
普通なら、そこでやめてしまうところだが、楠さんは違ったようだ。
「子ども一人に対して指導の大人が5、6人もいるわけです。おー少ないなあ。でも楽しくやろう、といいながら遊んでいると、その子も嬉しそうにしてくれて、次の週には友だちを連れてきてくれました」と楠さんは笑う。
自分のためにやっていると思っていたら、とうてい続けられるものではない。仏様にお役目をいただいて、命じられてやっているのだから、嫌だとか良いとか、そういうものではないのですと、楠さんは説明する。楠さんはかつて、兄の哲也さんと同じように、龍谷大学で恩師の山崎正見教授の薫陶を受けた。「生きている人に生きたみ教えを伝えなさい。それがお坊さんの本来の仕事なんだ」と教えられたことが、今でも深く身に沁みている。
◆原点は、すべて子ども会にある
その話を裏付けるかのように、光源寺では大人に向けても、日曜日に〝大人の日曜学校〟を開いている。40年ほど前に始めた「日曜礼拝」、そして日曜礼拝での法話をもとにお茶を飲みながら自由に話し合う「お茶のみ法座」がそれだ。礼拝と法話で約一時間という日曜礼拝は、子ども会と同じように、光源寺の門徒以外でも、誰でも参加を歓迎している。参加費のようなものもない。毎回、60~70人の人が集うそうだ。
「世間で起こっているニュースなども交えながら、法話をするんです」と、楠さん。その後のお茶の時間には、みんなで法話の内容を深め合ったり、相談ごとを話したりと、自由なコミュニケーションが生まれている。また、これとは別に参加者が講師となって学び合う会や、歴史を語り継ぐ会なども始められた。これらはお寺に集う人たちで自然発生的に生まれたもので、お寺の方から人を集めようと呼びかけたりしたものではないという。
楠さんは「原点は、すべて子ども会にあるんですよ」と語る。子どもの頃からお寺に来て遊んでいたら、お寺の敷居が高くなろうはずがない。「だから、子ども会はお寺にとって大切なんです」と、楠さんは目を輝かせる。
「恩師の山崎先生は、子どものための教化をやりなさい、といつも言われていました。それがお寺を育ててくれるだろうとも......。今、何十年も経って、そのことを実感しています」
◆語り継ぎたい平和への願い
2015年は、長崎にとって特別な年だった。終戦からちょうど70年。原爆が投下された8月9日には節目となる慰霊式典が行われ、被曝した町の遺構を前に、高齢となった語り部たちがその想いを語っていたことは記憶に新しい。
爆心地から3.3kmほどの光源寺にも、原爆投下の翌日から、けが人が次々と運び込まれたという。亡くなった人は、お寺の裏の国民学校で荼毘に付された。被曝したり、家族を失ったりした門徒も少なくない。そうした記憶を語り継ぐ集いは繰り返し光源寺で行われ、この節目の年に一冊の本にまとめられた。
原爆の日が近づくと、楠さんは毎年、子どもたちに原爆の話をする。ずっと語り継いでもらえるように、そして、次世代の子や孫が安穏でありますようにとの想いを込めてのことだ。「今、時代の流れは大きな曲がり角にさしかかっています。〝殺すなかれ〟と説いたお釈迦さまのみ教えを守り、歴史に学びながら平和の尊さを伝え続けていかなければ」。
人々が集う本堂には、天保年間に描かれたという美しい蓮の花の襖がある。これは原爆を受けてなお、奇跡的に残ったものだという。教えを伝え、人々の想いを語り継ぐお寺がある限り、平和を希求するこころも100年、また200年と蓮の花のように受け継がれていくことだろう。