仏教者の活動紹介

仏教者として為すべきことを ―一般社団法人 水月会―

(ぴっぱら2012年7-8月号掲載)

第36回正力賞受賞者の活動

発展目覚しいお隣の中国。彼の国からは仏教をはじめ、古来よりさまざまな文化や技術がもたらされてきた。歴史上、外交上の課題は残されているものの、まさに一衣帯水の関係といってよいだろう。

中国は、現在では世界第二位の経済大国となりつつある。しかし、「各省都から車で1〜2時間も走ると、もうそこは別世界。のどかな田園を貧しい子どもたちが走り回っていたりします。戦後すぐの記憶がある私にとっては、昔の日本にタイムスリップしたようです」と、一般社団法人水月会の創設者であり、代表理事を務める本多隆法さんは語る。

水月会は、中国をはじめとするアジアの発展途上地域の援助を中心に福祉活動を行っている団体で、その活動歴は50年近くにも及ぶ。現在では、海外での学校建設や困窮する家庭の子どもたちへの奨学金の支給、病気の人への医療援助など、現地からの要請をもとに幅広い支援活動を行っている。会員には趣旨に賛同する僧侶や寺院関係者なども多く、政治や宗教の別にこだわらず、お互いが相手の身となって考え、実践することを旨としている。

●一青年の発心から

本多さんは東京都品川区にある真言宗智山派の寺院、来福寺の住職でもある。来福寺に向かう道すがら、交通量の多い都心の国道から一本横道に入ると、まっすぐに伸びる長い参道が目に入る。緑に彩られた参道には、一歩進むごとに都会の喧騒を遠ざけ、日常の些事を忘れさせてくれる風情があった。

本多さんはお寺ではない一般の家庭で育ち、その後、来福寺を継ぐことになった。普通の家庭で育ったので、仏教の教えを学び、僧侶の役割について改めて考えたとき、お寺とは、お寺であることにただあぐらをかいていてよいものかと、若い頃から疑問を抱いていたそうだ。

そして、多くの師に助言を仰ぎながら仲間を募り、大学生の頃には仏教精神に基づく奉仕の会を設立、「水月会」と名づけた。1966年のことだった。

「仏教者として何かやらなければ」と、凌雲の志を掲げて立ち上がった本多さんだったが、そこはまだ学生のこと、資金などはなにもない。そんな中、まず目標としたのは運営に困っている未認可保育所を支援したいということ。そして思いついたのが、近隣の町会にも協力を依頼してのバザーであった。

仲間と3ヵ月に一度バザーを開き、その売り上げを保育所や児童養護施設に提供し続けた。こうした資金で、児童養護施設の子どもたちをバス旅行に招待したのもよい思い出だという。「あのころは、古いマンションの一室を事務所に借りて活動をしていました。仲間と額を集めて、毎日のように帰りは夜の11時過ぎ。終電になる日もしょっちゅうだったなあ」と、本多さんは懐かしそうに語ってくれた。

大学院の修士課程を修了した後には、しばらくは法類の寺院の職員を勤めた。仕事とお寺の法務と奉仕活動との「3足のわらじ」を履いて忙しい日々を送っているうちに、寺院関係者や政治家、政治家の卵など、活動の趣旨に賛同する多くの人と知り合い、協力してくれるようになったそうだ。

仏教界においては、各宗派の管長猊下に推薦文を書いていただけるようお願いし、入会者を広く募った。こうした努力が功を奏し、設立から25年を迎える頃には会員数は2500人を数えるほどになったという。現在では1500人ほどの会員に、会費のほか学校建設など事業ごとの寄付をお願いして運営をしている。

また、水月会の名誉会長は現在の真宗大谷派門首、大谷暢顯さんだという。「何十年も前から、水月会の中心となってずいぶんご尽力をいただきました。若い頃には二人でレンタカーに乗って全国をまわり、会員拡充のための全国行脚にも出かけましたね」と本多さん。こうして活動をすすめていくうちに、水月会には新たな転機が訪れる。

●「奇跡が起こった」

設立から20年ほどで耳にした、中国からの留学生の話は、本多さんを強く刺激した。貧しくて学校に通えない子どもたち、雨が降ると校舎の雨漏りで授業ができなくなる小学校、山崩れで壊れているのに、手付かずになっている中学校......。昔から「仏教教団や団体は記念行事やイベントを盛大に行うけれど、それを貧しい地域や各国の支援に振り分けようなどというところはほとんどないなあ」と感じていた本多さん。困っている人に手を差し伸べたいという水月会の願いが、海外にも向けられた瞬間だった。

ご縁を伝い、中国の湖南省の省都、長沙から車で10時間以上走った張家界の村に水月会が第一校目の小学校を建てたのは、1990年のことだった。

新校舎が建てられたとき、現地の人が「奇跡が起こった」とまで言ったことを、本多さんは忘れない。それ以降、水月会では毎年1〜2校のペースで学校を建設し続けている。1校を建設するのに必要な資金は、大きい学校でもおおよそ500万円ほど。日本と比べるとずいぶんな違いである。流れとしては、例年4月ごろ現地視察と調印を行い、秋頃に完成式を迎えるというものだ。

これまで中国に17校、バングラディシュやスリランカ、ベトナム、ミャンマー、ネパールなどにも学校等を建設し、あわせて22校が完成している。各校には、日本と現地の友好的交流の願いをこめて「友好学校」の名付けを申請し、完成してからも、子どもたちのため日本の公立学校と姉妹校提携を結び、文通や、互いに訪問しての交流を進めている。

毎年建設されるというと、いつもスムーズに話が進んでいくかのようだが、海外、しかも発展途上地域であるという要件を考えると、当然ながらさまざまな困難に突き当たることがある。関係者に途中で建設費の一部を持ち逃げされたこともあるし、現地の担当者がいいかげんで、事後報告で予算外の建築をされたこともある。また学校建設後、子どもの人数が減り学校が統合されることになった際に、日中の外交状況によっては、「友好」の文字をつけることが認められない、といったこともあったという。

●仏教者としての役割を果たしたい

それでも、本多さんは現地の子どもたちのため学校を建設し続けたいと語る。外国の田舎の子どもにとって、日本はほとんどの場合「未知の国」である。完成式では、各教室を回って自己紹介をしたり、仏教の話をしたりして日本を紹介するそうだ。子どもたちは素朴で貧しいながらも、目の力は強い。ハッとさせられることも多い。

中国においては、「子どもたちからもらう手紙に『日本にもよい人がいることを知りました』と書き添えてあったりします」と本多さんは苦笑する。戦争による悲惨な出来事を子どもたちは繰り返し教えられているのだろう。子どもたちには世界のことをきちんと学んでほしい、そして、両国間だけではなく、たくさん勉強をして諸外国とも友好の架け橋になってもらえればと、本多さんは願っている。

「学校建設の活動に行き着いたのも、たくさんのご縁のおかげです。表彰を受けたのも推薦していただいたからで、実は、あまりこういったことには関心がありません。人様のお役に立ち、昔、そういえばこういった団体があったなあと誰かに思い出してもらえるだけで、十分ではないでしょうか。奉仕活動や福祉活動に専心するのは、仏教者として当たり前のこと。これからの仏教界を担う若いお坊さんにも、いろんな方面で頑張ってもらえれば」と、本多さんは若い人たちにもエールを送る。

インドなど、まだまだ多くの国で、必要とされる学校を提供したいという本多さん。この度の正力松太郎賞受賞をきっかけに、子どもたちのための新たな奨学基金の立ち上げも検討しているそうだ。

一青年が宗教や宗派、立場の別なく仲間を募り立ち上げたボランティア団体は、今や海を越えて世界の子どもたちの笑顔を生み出し、未来への道をつないでいる。本多さんの言葉通り、一人でも多くの僧侶が後に続くことを願わずにはいられない。

こころを育む「夢の世界」 ―妙休寺「影絵劇さわらび」― つながりの中で子どもを育む ―杉の子こども会―