仏教者の活動紹介

人の力を重ねて――名刹の復興にかける

(ぴっぱら2009年9-10月号掲載)

第33回正力賞受賞者の活動〈青年奨励賞〉 ―天台宗教林坊 廣部光信―

●観音浄土

「教林坊を目指して荒れ果てた竹藪を上っていた私の目の前に、突然まばゆい緑の空間が現れました。建物と庭園を包み込むように空を覆うもみじの新緑が、青いセロハンとなって苔むした地上をより一層輝かせ、鳥たちの鳴き声が響き渡る、観音浄土ともいうべき優雅な空間がそこにあったのです」

廣部光信さんは、荒れ寺となっていた教林坊を初めて訪れたとき、このような思いを抱いたという。

廣部さんは、教林坊と同じ滋賀県の安土町にある光善寺という天台宗の寺に生まれ育った。大学時代にはドイツ文学を専攻し、卒業前には東京の証券会社からの内定も受けていた。しかし、そのまま家に戻ってこないのではないかと心配した両親の薦めによって、宗門の僧侶養成校である叡山学院に入学することになる。

学院で実践的な法儀を学ぶと同時に、2年目には京都の青蓮院へ随身し、拝観寺院のあり方についても学んだという。「この2年間の経験が今日の教林坊住職としての礎となりました」と廣部さんは語る。

●復興への道のり

教林坊は、推古13年(605年)に聖徳太子によって創建されたと伝えられている。教林という寺名は、太子が林の中で教えを説いたことに由来し、境内には太子の説法岩と呼ばれる大きな岩と、ご本尊の観音さまを()る霊窟が残されている。

この太子創建の名刹も、50年ほど前に先住が亡くなって以来約20年間その夫人が一人で守ってきていた。やがて夫人も他界すると、その後は半ば放置状態となってしまったという。廣部さんは、平成7年に初めて教林坊を訪れこの地に観音浄土を見た時、寺の復興後の姿が鮮明に浮かんだという。廣部さんは、まさに仏さまに導かれるように住職への就任を決意し、その年の11月には任命を受けることとなる。

しかし、住職には就任したものの、24歳の青年僧にとって復興への道のりはそうたやすいものではなかった。平成9年には叡山学院時代の友人の手弁当による協力で晋山式を行うが、当初は何からどう手をつけていいのかわからない状態だった。

寺の役員と相談してまず行ったのが、建物と庭園の文化財的な調査を安土町に依頼することだった。調査の結果、庭園は桃山様式の名庭として名勝に指定され、庫裏は江戸時代前期の貴重な里坊建築として町の文化財となった。

これにより、本堂の修理に先立って庫裏の保存修理を優先して行うこととなった。修理費用の総額は4千万円。半額は行政からの補助が受けられるが、残りは自ら負担しなければならない。

廣部さんは役員と一緒に、勧募のために120戸ほどの地元の家々を一軒一軒回ることにした。時には罵声を浴びせかけられ塩をまかれることもあったという。「修理したところで締め切った状態ではすぐにだめになるじゃないか」「自分の家も直せないのに何で関係のない寺を直さないといけないんだ」といった批判も受けた。

しかし、それでも多くの人が若い住職の熱意を受け止め、貴重な浄財を寄せてくれた。「涙が出る思いだった」と廣部さんは言う。私財も投じてなんとか資金を工面し、平成11年から4年の歳月をかけて庫裏の修復を成し遂げた。

●数珠を金槌に持ち替えて

庫裏が落慶したことを機に、廣部さんは叡山学院卒業後8年間勤務していた天台宗務庁を退職する。「修理したところで......」と言いつつも募財に協力してくれた人たちへの責任を強く感じており、「復興に専念しなければ」と思っていたからだ。

その廣部さんを次に待っていたのは本堂の修理だった。屋根は傾き雨漏りがしていた。本堂の屋根裏に上がってみると、屋根を支えているはずの柱の上部が20センチほど腐って無くなっていた。業者に相談したところ、屋根をすべて取り払って柱を入れ替えるしか方法はないという。しかも、全体的に朽ちているだろうから、建て直した方が賢明だとも言われてしまった。資金はすでに底をつき、蓄えを取り崩しながら生活している中で、もはや建て替えるなどということは不可能な話であった。

廣部さんは自らの手で本堂の修理を始めた。ずれた瓦を上から一枚一枚並べ直し、コーキング剤を塗って固めていった。傾いた軒先をジャッキアップして垂木(たるき)と垂木の間に新たな垂木を打ち込んだ。腐った柱には新しい柱を沿わせてボルトで固定し屋根を支えた。堂内の朽ちた土壁も落として取り替え、建具も自分で作ってはめ込んだ。「大きなプラモデルと思い楽しみながら作業をしていました」と、当時の孤独な作業を振り返る。

しだいに地域の人びとの間に「若住職が毎日屋根に上ってがんばっている」と、噂が広まっていった。すると大工やヨシ屋根葺きの棟梁など5名ほどが手伝いを申し出てくれた。これ以後、境内の整備は順調に進んでいく。伸び放題だった竹林を開墾して庭園を回る道を作り、軒が落ちた土蔵の屋根を境内のヒノキを使い、琵琶湖のヨシで葺いて合掌造りにした。

●見守られ導かれて

平成16年4月、聖徳太子による開創1400年の節目に合わせるかのように、教林坊はおよそ20年ぶりに一般公開されることになる。公開にあたって廣部さんは新聞各社の地元の支局を訪問し、広報への協力を仰いだ。秋には大小150基のライトを境内に配し、およそ100本の紅葉したもみじをライトアップした。これらの努力が実り、前年の秋には100人ほどの来訪者しかなかった教林坊に3000名もの人が訪れるようになったという。話題作りのプレイベントとして、クラッシックやアイリッシュバンド、沖縄の民謡などの音楽会も開催する。

また、平成17年からは地域の人の発案で、夏休みに小学生と保護者を対象とした「お寺不思議発見」という会も始めた。写経・止観・法話・抹茶の作法などを親子で体験し、会の終わりには、みんなで短いお経を一文字ずつ書いて完成させお唱えもする。

さらには、地元の中学生を対象に職場体験を行うようにもなった。5日間のプログラムで毎回3〜4人ずつが、作務や接客などお寺の生活を体験する。特にトイレ掃除は雑巾を使って丁寧に行うという。「子どもたちには世間の物差しとは違うほとけさまの物差しがあるのだということを知ってもらいたい」「利潤追求ではない価値観があるのだということを体で感じてもらいたい」と廣部さんは語る。

これらの会の他にも、教林坊では、茶会、落語会、芸術作品展などを都度開催しており、平成20年には、寺に江戸時代の秘伝書や道具類などが残っていたことから香道「教林坊流」も立ち上げた。

そんな廣部さんの多彩な活動を支えているのが、住職就任が決まったときに師匠である父親が語った言葉だという。それは、「動くとは力を重ねていくこと」というものである。師匠が伝えたかったことは、「本気で荒れ寺を復興するならば常に動く必要がある。住職自身の行動力が必要だが、それだけではダメだ。住職自身の力ではなく周りの多くの人の力を重ねてこそ初めて復興できる」ということだ。

今回の青年奨励賞受賞をきっかけに、廣部さんはさらに多くの人の力を重ねながら、新たなステージに向かって歩み続けていくことだろう。インタビューの最後に語ってくれた「いつもなにかに見守られている、導いてもらっているという安心感があります」という一言が、宗教者としての自覚と自信をうかがわせていた。

つながる・ひろがる・アジアのねがい ―曹洞宗大船観音寺内 ゆめ観音実行委員会― お寺の新たな可能性を体現 ―浄土真宗本願寺派光明寺 光明寺仏教青年会―