仏教者の活動紹介
熱意あふれる教化活動
(ぴっぱら2008年9月号掲載)
第32回正力賞受賞者の活動 ―臨済宗妙心寺派栽松寺住職 栽松完道さん―
●地域社会と寺のつながり
長良川と並んで、岐阜市のシンボル的存在である金華山のふもと、伊奈波通に栽松寺はある。伊奈波通という地名は、金華山の旧名である稲葉山からきているのであろう。金華山の山頂にはかつて難攻不落の名城とされた稲葉山城があり、これを織田信長が岐阜城と改名した。伊奈波通は岐阜城下にあって多くの寺が集まる寺町となっている。
栽松寺は先代住職が戦死したために住職不在となっていた。ここに栽松完道さんが入って住職となったのは昭和26年、昭和元年生まれの栽松さんが26歳の時である。一つの寺の運営を任された栽松さんは、まず寺の社会貢献を考えたという。壇信徒を対象にした活動はもちろんだが、それだけでなく都市寺院が社会資本として活かされるためにはどうしたらよいかを真剣に考えた。
そして、近隣の町内にたくさんの子どもがいることに着目し、子ども会活動をはじめることにした。今と違って塾もなく、各家庭にテレビもない時代で、子どもたちには放課後にありあまる時間があった。
子ども会の活動として最初期の取り組みは、静坐や掃除の指導だった。特に、禅寺で伝統的に重んじられている掃除指導については熱心に取り組んだ。大人になったこの時の子どもたちに「子ども会の活動で何を一番よく覚えているか」と聞くと、「本堂の雑巾がけ」と答える人が多いそうだ。
活動を始めて栽松さんが改めて気がついたのは、お寺には暗黙のうちに社会的な信用があるということだ。よそからから来て、住職になったばかりの栽松さんが始めた子ども会活動だが、お寺のすることだからということで父兄は協力してくれたという。
当初に活動を手伝ってくれたのは他の寺の僧侶であったが、だんだんと一般の人も手伝ってくれるようになった。子どもに話を聞かせたり、紙芝居をしたりといった協力者がどんどん増えていった。そのうちに幻灯機を寄付してくれた人がいて、子どもたちの喜びそうな作品を上映して楽しませたことを、栽松さんはよく覚えている。地域社会と寺が一体となっての子ども会活動だった。
父兄から頼まれて始めたものに、「お行儀を習う会」がある。中学生くらいの女の子が対象で、きちんと座ってお茶をいただく指導などを行った。また、お寺ならではのものとして「お経を習う会」や、夏休みになると、朝のラジオ体操へ行く前の「子ども坐禅会」も行った。
郊外の大きいお寺に頼んで、そこで一泊しての子ども会もあった。多い時には50人ほどの子どもを連れて行き、夏休みの学校の宿題をしたり、和尚さんの話を聞いたり、食事の作法を教えたりした。「この頃の子どもはイタズラも多かったが、叱れば素直に聞いたし、なによりも目が輝いていて明るかった」と栽松さんは当時を振り返る。
●お寺で行う生活指導
活動の場を広げてきた子ども会であったが、時代の流れとともに子どもたちを取り巻く環境も変化してくる。放課後に塾に通う子ども、習い事に通う子どもが徐々に増えていったのだ。そうなると子ども会は成り立たなくなってくる。
その頃、代わりにだんだんと増えてきたのが、親たちからの個別の子育て相談だという。たとえば、「子どもたちに落ち着きがないから、坐禅させてくれないか」といったような要望である。
職員会議で退学決定の寸前までいった素行の悪い高校生を「一週間お寺で預かってくれないか」と、生活指導の先生から頼まれたこともある。その生徒に「ちゃんと和尚の言うことを聞くか」とたずねると、「聞きます」と答えたので、お寺で生活をさせてみることにした。
毎日、般若心経を読ませ、ノートに反省文を書かせた。生活指導の先生は、その生徒が素直に反省文を書いているのを知るとびっくりしていたが、生徒自身も規則正しい生活のなかで、何とかしなければいけないという自覚が生じたのに違いない。
また、同じような理由でお寺に来た別の高校生は、お寺に来てから2日間はまったく何も喋らなかったという。そうして3日目にようやく口を開いて言ったのは、「和尚さん、私は母親の嫌がることばかりやってきた。勉強はしないで夜遊びばかりしてきたんだ」ということだった。栽松さんが「どうしてだ」と聞くと、「母親は私の髪の毛の伸ばし方が不良だと言って、私が寝ている間に髪を切ったりした。それに、妹は私の子だけど、おまえは私の子ではないと言った。それで母親の嫌がることをしたんだ」と言う。
親としてしてはいけないこと、言ってはいけないこともある。そこで、一週間後に先生と母親が一緒に生徒を迎えに来た時に、母親にそれを注意した。すると、「和尚さん、それはよくわかっているんですよ」と、母親はこともなげに答えたそうである。
お寺に来る子どもの素行不良、あるいは親から受ける子育て相談にはいろいろなケースがあるが、子どもだけでなく親にも問題がある場合も多いように思えると、栽松さんは語る。
●子どもを信じてこそ
子育てに関して栽松さんは、親が過保護になり過ぎていることを指摘する。そして鳥の子育てを例に出して、「親鳥は雛鳥が一人前になるまで餌を与え、命がけで育てるが、餌の取り方までは教えない。時期が来たら餌を与えなくなり、それで雛鳥は命がけで巣を飛び出して餌を探すようになる」という。
栽松さんによれば、これは、何かを教えるのではなく、一緒に生活して自分で気がつく所であるとする、禅寺の教育方針に似ているという。
ところが、今の親は自分の理想を押し付けるがごとく、子どもをこうしたい、ああしたいとコントロールしようとすることが多いという。そしてそれが思うようにいかないと、「子どもを育てる自信がなくなった」と言い出す。親はもっと自然に任せて子どもに接するべきで、そうしてこそ、本当の親子の絆が作られるのではないだろうか。
栽松さんは、青少年の健全な育成に尽力しながら、自坊に「大衆禅学道場」を開き、一般成人を対象にした禅指導も行っている。また人生相談も行い、教誨師としても活動してきた。こうした功労によって、平成14年には勲五等瑞宝章を受章している。
多くの社会活動を通じて栽松さんが思うのは、今の日本の社会は、自分の利益ばかり考える風潮が強く、「共に生きるということの大切さを忘れているのではないか」ということ。皆と共に生きてこそ幸せはある。自分だけの幸せというのはありえない。しかし、この悪しき風潮は教育にも及んでいて、将来は人よりいい生活をすることや、いい学校へ入ることにのみ熱心になっている。そして他人と比較して、競争に勝つことばかりを教えている。
「人との比較でなく、それぞれの子が素晴らしい魂を持っている。親はそれに気がついて、それを大切にすることを教えていかなければいけないのではないでしょうか」と栽松さんは語っていた。(関口)