仏教者の活動紹介
お寺の持つ魅力と社会的価値 ―経王寺―
(ぴっぱら2007年4月号掲載)
入れ替わる住民
経王寺の界隈は新宿区内にあって今でも閑静な住宅地の面影を残しているが、地下鉄大江戸線の開通と、ここ数年の都心におけるマンション建築ラッシュに伴い少しずつ様相を変えてきている。経王寺は大江戸線の牛込柳町駅の間近にあり、駅を出るとすぐに「開運・大黒天・経王寺」と書かれた大きな案内板が大久保通り沿いの寺の塀に掲げられているのを見ることができる。
都心のお寺が抱える共通の問題として、檀家さんが遠方へ越してしまい、近くに住む人がどんどん減ってしまっていることが挙げられる。経王寺も例外ではなく、10年ほど前の調査では、お寺に歩いて来られる範囲に住んでいる檀家さんはほとんどいなくなってしまっているという結果が出たそうだ。遠くへ引っ越してしまった檀家さんの替わりに、次々に建てられるマンションに入居してくる大勢の人たちがいる。地域住民のメンバー交替がなされているようなものだ。
遠方の檀家さんはだんだんとお寺への脚が遠のいていく。これから世代が代わっていけば尚更であろう。そして、新しくできたマンションに越してきた住民が、お寺との縁を持とうとするかと言えば、それは滅多にないことだ。何かきっかけがない限りはお寺の前を素通りするだけ。こういった状況はお寺の運営の面にも問題をもたらすが、それだけではなく、お寺の持つ文化的な意味や社会的な価値がいかされずに放置されてしまうことになる。それはあまりにもさびしいことであるし、もったいないことだ。お寺を社会に対して開放するとともに、時代の事情に合わせて地域社会・地域住民との関係を結び直す必要があるだろう。経王寺住職の互井観章さんは、人が集まるお寺をめざしてさまざまな活動を続けてきた。
稲作道場でいのちの大切さを学ぶ
互井さんは、お坊さんになった20歳代の時から「お坊さんの仕事とは何か」を考え続けていた。お勤めして法事して、お墓の掃除をして、それだけでいいのだろうかと。社会に対して大きく門を開き、もっと積極的に人々との繋がりを持つことができないだろうか。そして、お寺との縁がない人たちに仏教を発信していくことができないだろうか。この頃から経王寺の寺子屋構想は始まっていたのは墓地での納骨法要での出来事がきっかけだった。
夏の法要だったために地面にはたくさんの蟻がいた。そのたくさんの蟻を法要に来ていた子どもが踏み潰して遊んでいた。互井さんは、「だめだよ、蟻さんも生きているんだから可愛そうだからやめなよ」と注意した。子どもは「だって気持ち悪いんだもん」と言う。その時に母親が「お坊さんに怒られるからやめなさい」と叱った。「それは叱り方が違うだろう」と思った。「私に怒られるからやめるのではなく、生き物を殺すことは良くないことだからやめるべきなのに」
この時に考えた。「いのちの大切については普段から法要などで話しているけれども、伝わっていないのかもしれない。特に子どもには、話しをするだけではなかなか伝わらないのではないだろうか」そこで、それなら一緒に生き物を育てようと考えた。稲を育ててみよう。子どもたちと一緒に稲作をやって生き物を育てていけば、いのちの大切さがわかるかもしれない。それと同時に、食べ物の大切さもわかってくれるかもしれない。
運良く福島県の会津田島にいる知人から田を貸してもらえることになった。そしてその知人の経営する民宿に、泊まりで出掛けて稲作を体験しようという企画が練られた。この「寺子屋稲作道場」は、多い年で40人くらいの参加があったという。種まき・田植え・刈り取りと、年に3回出掛けて作業を行う。毎回参加しなければならないわけではなく、参加できる時だけ行けば良い。そして最後に収穫したお米を参加した回数に応じて分配するというものであった。
稲作道場に参加した子どもたちは泥で手が汚れた時に、すぐ脇に用水路が流れていても初めの頃はそこで手を濯ぐことができず、洋服で泥を拭う。用水路の水の中に手を入れることくらいでも、なんとなく嫌な感じのするものらしい。しかし、子どもはすぐに順応するもので、やがて田んぼに首までつかって泳ぐ子どもも出てくるようになったという。環境の変化にすぐに馴染んでしまう子どもたちの適応能力の素晴らしさを改めて感じた。
経王寺の寺子屋行事は子どもはもちろんのこと、大人も一緒に参加するのがというのが前提になっている。お釈迦さまからみれば、皆、子どもであって区別はない、と考えているからだ。そのため、稲作道場は大人だけでも参加することができ、評判の良かった行事だった。だが、運営を続けるにあたって問題点も出てきたため、一昨年の第8回を最後に今は休止している。運営上の問題というのは、行き帰りの交通の安全確保のこと。それに、この行事は準備を含めると丸3日費やさなければならず、当事は副住職だった互井さんが住職になったために、寺を3日連続で空けるわけにはいかなくなったということもある。
そこで、寺にいながらにしてできる行事がないかと考え、始めたのが「寺子屋映画会」である。見終わった後に親子で話し合えるような内容の映画をお寺で上映してみたい。これは「幼い難民を考える会」というNGOと協力して年1回のペースで開催している。
この他に経王寺で現在行っている活動としては、本堂を会場にして年に5~6回開かれる「プンダリーカライブ」という演奏会。それに、花祭りに行う「音楽法要」と名付けられた音楽ライブがある。お釈迦さまの物語を雅楽と声明を交えて表現するものだ。何らかのイベントを月に一回のペースで行うのを理想としている。音楽法要や演奏会には毎回60~70名くらいが参加するが、映画会は上映作品によって参加人数が大きく変わってしまうのが悩みだと言う。
お寺に人々が集まる意味
こうしたさまざまな活動を通じて互井さん自身が学んだことも多い。たとえば、音楽ライブの出演者は皆プロの表現者で、自分が持てるものをすべて出して観客にアピールしている。観客はそれに感動して、また観たい、聴きたいと思う。お坊さんもそれと同じなのではないだろうか。どれだけのことを法要の中で伝えることができ、感動さ良かったな」と思ってもらえるような何かをお坊さんとして表現できなければ、法要を行う人はどんどん減ってしまうのではないだろうか。その辺りをお坊さんはまだまだ甘く考えているかもしれない。
「お坊さんは、お勤めして法事して、お墓の掃除をして、それだけでいいのだろうか」と思ったのがきっかけで、さまざまな活動を始めるようになった互井さんだが、活動を通じて感じたことは、「きちんとお勤めをして、きちんと掃除をして、お経が聞こえるお寺、お香の薫りがするお寺であることが何よりも大切」ということだ。どんなイベントを行うにしても、お寺が宗教的な雰囲気をちゃんと作っておかなければならない。そうでなければ、お寺で行う意味がない。宗教的な雰囲気は普段の当たり前のお勤めの積み重ねから生まれてくるのであろう。
敷居を下げて人々が集まるお寺を作っていくには色々な方法があるだろう。しかし、宗教施設だからこそ醸し出すことのできる魅力をアピールすることが大切であり、なによりもそれを人びとはお寺に求めているのだと思う。(関口哲)