仏教者の活動紹介

子どもたちの目線で―― ―金剛寺―

(ぴっぱら2005年1月号掲載)

お坊さんって何をしているの?

金剛寺の志田洋遠住職は、昭和51年に本山の長谷寺で修行を終えて前橋に戻り、病院の事務員として働いていた。そのとき、18歳の末期がんの少女が、夜中に突然「お坊さんの話が聞きたい」と言い出した。志田さんは、近隣のお寺に電話をして事情を説明し、病院に駆けつけてほしいと懇願するが、誰一人としてやってくるものはなかった。
志田さんは、救急対応の宿直だったたため、自分で少女の元へ行くことはできない。やがて、お寺をあきらめキリスト教の教会へ電話をすると、牧師がすぐさま飛んできた。結局、少女は洗礼を受けることとなり、クリスチャンとして亡くなっていった。
病院の院長が、「生きている人のためにやっている坊さんは誰もいない」とつぶやいた。志田さんはとてもショックだった。「情けない」と思った。
そしてまたあるとき、次のようなことがあった。
お父さんとお母さんは朝から夜まで仕事しているのに、お坊さんは何をやっているの?」小学校5年生の女の子が発した素朴な問いかけだった。「子どもたちには僧侶の姿がまったく見えていない」と、志田は愕然とした。
このような出来事が度重なり、志田さんは「子どもたちに僧侶の生き様を見せていかねば」「生きた人間を対象に活動をしていかねば」と、昭和53年に仏教子ども会「青雲会」を設立することになる。言葉で語るのではなく、作務や読経、坐禅など、実際に僧侶の日常生活を体験することによって、体で学んでほしいと思ったからだ。そして、「手にふれることのできない、目で見ることのできない大切なものがあるのだ」と子どもに伝えたかった。
金剛寺の子ども会では、お寺での生活体験のほかに、毎回ユニークなプログラムが実施されてきた。勤務していた病院のスタッフや近所の農家の人などを講師として招き、「車椅子体験」をはじめ「盲導犬体験」や「水質検査」などを行った。「バイ菌の培養」に取り組んだ際には、顕微鏡を覗き込んだ子どもたちから「バイ菌ってきれいだね」「結核菌のような悪い菌の方がきれいだよ」という声が聞かれた。新たな視点が子どもたちの中に生まれた瞬間だった。
ジャガイモや大根を畑で育てて収穫し、福祉施設に納めることもあった。子どもたちにとっては良い就労体験になったようだが、それを見ていた一部の人は、「金剛寺は子どもを使って金儲けをしている」と心無い陰口をたたいた。しかし住職は「子どもたちが真意を知っているのだから」と意に介さなかった。子どもたちも、「いもを作ったって儲けにならないよね」「八百屋で買った方が安上がりだよ」と言っていたという。
「子ども会の出身者には、介護や看護など社会福祉に関係する仕事についている者が多いんですよ」と、笑みをたたえながら志田さんは語る。志田さんの思いが、子どもたちの生き方に形になって着実に表れてきているようだ。

問題行動との格闘

やがて地道な子ども会活動が評価され、志田さんは県警の青少年補導ケースワーカーに推薦されることになる。委嘱を受けて初めての仕事は、校内暴力で荒れている地元の中学校の沈静化だった。志田さんが学校へ赴いた当初は、先生が生徒を怖がっており、何も手出しができない状況だった 学校へ連日通いはじめた志田さんは、ほどなくして番長に接触を試みるようになる。時には彼の自宅まで行き親とも話をしたという。そして、シンナーで体が蝕まれていく少年に接しながら、大人側の責任について思いを馳せざるをえなくなっていった。「かつては、親の背中を見て子どもは育つと言われていましたが、今は、親の胸を見せないと子どもは育ちません」と志田さんは語る。それは、子どもたちから逃げずに「しっかりと向き合って語る」「顔を突き合わせてめしを一緒に食う」ということだという。
その中学校では、教師のある無責任な行動をきっかけに、生徒が反発するようになった。教師たちは子どもに背を向け逃げるようになり、そんな教師を生徒は馬鹿にした。教育委員会やPTAはあまりにも無力だった。行動や言動に裏表のある大人、子どもたちに対して熱意のもてない大人、彼らは、子どもたちがさまざまな形でSOSを発信しているにもかかわらず、気づかないふりをして無視していた。
そんな大人たちの有り様を見て、志田さんは危惧を抱いた。そして、「子どもたちの荒れの原因は大人にある」「教師には、クラスの子どもがすべて自分の子どもだという気持ちを持ってもらいたい」と考えるようになったという。
地域には行政が運営する相談室もあった。しかし、そこは退職した教員たちのたまり場。そのような場所に学校へ通えない子どもたちが相談に行ける訳がない。そんな相談室に替わって、金剛寺は20年近くも役割を担ってきた。
「行政の窓口は5時までですから、それ以降は誰も動こうとはしません。夜中に子どもから電話がかかって飛び出して行ったことも何度もあります」
「すべては大人社会の縮図なんですね。子どもたちは大人の犠牲になっているんですよ」
そのように語る志田さんの目線は、いつも子どもたちと同じ高さにある。そんな姿勢が「私も子どもの心を忘れずにいつまでも生きて行きたいですね」という言葉になって表れる。

まず行動を

現在は、保護司や行政相談員も務める傍ら、「青少年心の相談室」という看板を掲げ、電話やインターネットなどでさまざまな若者の心の悩みに応じている。平成16年の10月からは、全国不登校・引きこもり対応寺院ネットワーク「てらネットEN」にも参加し、深刻な社会問題となっている引きこもりの問題にも取り組みはじめた。
また、アメリカの同時多発テロから3年目を迎えて「諸宗教者による平和を祈る集い」を寺の本堂で開催した。県内のカトリック教会の司祭や伊勢崎市にあるモスクの指導者などと共に、宗教や宗派を超えて世界の平和を祈願した。「今の仏教界はイラク情勢を前に何も言っていない。何も言わないのは加担しているのも同然」と、志田さん指摘する。
若い僧侶に対して何かアドバイスをと水を向けると「まず行動を起こしてもらいたい。できることを何でもいいからやってほしい」「サラリーマン坊主が多くなっています。仏教をバックボーンにしてしっかりと歩んでもらいたい」と、叱咤激励してくれた。
「教育とは教える側が夢や理想を追い、感動を伝えるものだ」と語ってくれた志田さん。これからも、一人ひとりの子どもや若者に胸を見せながらたゆまず前進していくのだろう。(神)

(ぴっぱら2005年1月号掲載)
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