教育セミナー
2002.03.23
第5回「家庭裁判所調査官から見た少年たち」
全青協では、通算で5回目となる「教育セミナー21」を、去る3月23日に東京・千代田区の大手町ビルで開催した。本セミナーは、21世紀の教育のあり方について、世間的な既成概念にとらわれない自由な発想で考えていこうという主旨で行われている。
今回の講師は、少年法改正の問題に携わり、多くの著書や論文を発表している家庭裁判所調査官の井上博道さん。井上さんには、昨年11月に全青協が主催した「青少年問題フォーラム―少年犯罪と仏教―」で、日頃少年たちと接している各専門家同士のディスカッションのパネラーとして参加していただいている。
その時は、仏教者と寺院に対する意見として「少年には、やり直そう!という決意が必要」として、「そうした決意は人の"言葉"がきっかけとなる」と語ってから、「僧侶は心に届く"言葉"を語ってほしい。そして、お寺は物理的に開放するだけではなく、僧侶の生き方を見せるような開き方をしてほしい」と参加者に訴えていた。
このようなご縁もあり、また、もう一度井上さんの話を聞きたいなどのリクエストの声も多く、今回のセミナーの講演と相成った。今回は「家庭裁判所調査官から見た少年たち」というテーマで、質疑応答を交えながら3時間にわたって話していただいた。
まず井上さんは、家庭裁判所調査官の実際として、全国で1523名の調査官のうち、子どもの問題を扱うのは約三分の一にあたる600人ほどであると紹介した。この人数で、ごく小さな事件を含めて20~30万件にものぼる膨大な非行の案件を処理している実態を明らかにした。
そして、大人の犯罪の約9割は裁判所に送られず不起訴となる一方、少年犯罪はすべてが家庭裁判所に送られた上で、重大な事件は検察庁に「逆送」されるという違いを説明した。そして、検察官に対しては「立場上、罪を犯したあとの少年の更生や健全育成には興味がなく、犯罪だけを見て判断している面がある」と批判した。
そして現在の世論としての少年犯罪に対する見解には、「マスコミなどの影響で少年犯罪が増加しているように受け取られ、悲観論みたいなものが世の中にはあるが、実は凶悪犯罪の中でも、殺人事件は30歳代が犯すケースが最も多い。少年犯罪に過敏になり過ぎているのでは」と語り、少年犯罪に対する世論の認識と、現場で少年たちに接している調査官の認識との差を示した。
少年たちの非行に走るプロセスとしては、中学2年生くらいから形成された人間関係が大切であるとして、そういう周囲の環境が本人に与える影響は重要で、悪い人間関係を築いてしまい非行に走るようなことがあれば、物理的に環境を変えてしまうのも手ではないか、と具体的なアドヴァイスを述べた。また非行少年に対しては、事務的な応対ではなく、心のこもった話しかけと、何か一つでも得意なところがあればとにかく褒めることが大切であるということを熱く語った。
"褒める"という言葉で思い出されることがある。プロ野球の世界で開幕後、首位を独走していた阪神タイガースだ。開幕7連勝は64年ぶりの快挙であり、16年ぶりの優勝にむけて注目されている。
このタイガースの監督はご存知闘将・星野仙一である。星野監督は最下位常連の弱小チームを短期間でここまで成長させた。ここにも"褒める"というキーワードが潜んでいる。厳しさと熱血で知られている星野監督ではあるが、もう一つの側面としては選手をよく褒めるそうである。
また"Qちゃん"の愛称で有名な高橋尚子選手の監督である小出監督は「高橋は褒めて世界一にした」と公言している。こうしたことからも"褒める"ということの人間形成に与える影響の重要性がうかがえるであろう。
質疑応答の時間では、参加者からの「15歳になる息子が非行に走っていくようである。だんだんエスカレートしていくのが心配」との質問に、井上さんは「さまざまなケースがあり、間接的に聞いた話で答えるのは難しい」としながらも、「物理的に引越すなどの環境の変化を与えるのも手ではないか。また調査官がこんなことを言うのはいけないかもしれないが、もし息子さんが罪を犯してしまった時には、我々調査官があなたと共に対応していくので、あなた一人ではないということを認識してほしい。一人で悩まずに」と励ましのアドヴァイスを送った。
先進国日本を作り上げてきた教育システムは、学級崩壊、不登校・引きこもりの増加にみられるように行き詰まりを見せている。
このような実情の中、仏教はどのように手を差し伸べることができるのであろうか。非行少年は、家庭、学校から排除され居場所がなく、権力関係以外で話し合える大人もいない。
お寺は、そうした彼らの居場所となり、僧侶には、一方的でない、相手の声も聞く対話型の仏教を目指していくのはどうであろうか。井上さんのいうように、非行少年の問題は1000のケースには1000の対処法があり、それぞれが異なるものである。ならば、八万四千の法門があるという仏教には、さまざまなケースに対処できる知恵があるのではないだろうか。今後の寺院の対応に期待したい。(総)