東日本大震災支援
2012.03.09
宮沢賢治の夢―3.11からの再生―
全青協主幹 神 仁
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ
これは、詩人・童話作家として著名な宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩です。昨年の3月11日に起きた大震災以来、この詩は被災した方々のための祈りの言葉として、世界各地で朗読されてきました。この詩はなぜか読む者と聞く者の心を温かくし、勇気を与えてくれます。被災地を巡る私自身の大きな力にもなってくれています。
俳優の渡辺謙さんはいち早く「KIZUNA311」というウェブサイトを立ち上げ、自らこの「雨ニモマケズ」を朗読し公開しました。ネット上ではすでに80万回以上も再生されているようです。渡辺さん自身が、北国の新潟県出身であることからも、この震災を自らのこととして捉え、居ても立ってもいられないほどの気持ちで朗読に臨んだのではないかと思います。「KIZUNA311」には、世界中の著名人からさまざまな励ましのメッセージが寄せ続けられています。
◆
作者の賢治は、明治29年(1896)8月に、現在の岩手県花巻市に生を受けます。地元では裕福な商家の長男として誕生しました。父親は浄土真宗の篤い門徒であったと言われています。実は、賢治が生まれる2カ月前の6月にも、岩手県の沿岸でマグニチュード8.2という巨大な明治三陸地震が起こっています。30メートルを超える大津波が三陸の沿岸部を襲い、死者・行方不明者あわせておよそ2万2千人を数えました。
東日本大震災においては「今回の災害は千年に一度の未曾有のことであり想定外だった」と、いわゆる識者たちは語り続けてきました。そして、メディアもまた検証もせずにその言葉を鵜呑みにして報道してきました。しかしながら、賢治が生まれたその年にも、今回とほぼ同じ規模の大災害が起こっていたのです。さらには、賢治が亡くなる昭和8年(1933)の3月にも、マグニチュード8.1という地震が三陸で起こり、およそ3千人の死者・行方不明者を出しています。この地震の4日後、賢治は友人宛のハガキに「被害は津波による最も多い海岸は実に悲惨です」と記しています。
こうしたことを考えると、識者が語る「想定外」という言葉が空虚に響いてきます。特に福島の原子力発電所関係者が語るその言葉は、責任逃れ以外の何物でもないように思われます。
また賢治は、「農民芸術概論綱要」の中で次のように語っています。
「宗教は疲れて近代科学に置換えされ然しかも科学は冷たく暗い」
この言葉は私たちにとって、とても暗示的に響きます。科学技術の力で予知し防ぐことが出来ると思っていた津波、そして制御することが可能だと思っていた原子力......。時代の要請に応えることの出来なくなった宗教を横目に見ながら、明治期以来発展し続けてきた科学知・科学技術による近代社会の発展の一つの帰結が、今回の大災害であったように思われてなりません。そこには、人間の欲望や驕り、そして無智が横たわっているように思われます。
賢治は科学者ばかりではなく、宗教者の責任も問うているのです。
◆
賢治が「雨ニモマケズ」を著したのは、自身の死の2年前のことです。病床にありながら手帳に書き記したのが、この詩でした。
賢治が生きた時代は、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義の新鮮な空気が日本中に満ちていました。労働運動、農民運動、部落解放運動、女性解放運動など、人間の尊厳を平等に認めようとする社会運動が本格化した時代です。
しかしながら、賢治が生まれ育った東北の地は、地震や津波、干ばつや冷害といった天災により、多くの人が命ぎりぎりの苦難を強いられていました。その惨状は『グスコーブドリの伝記』という作品の中にも表現されています。
イーハートーヴの木こりの子として生まれたグスコーブドリは、冷害によって親を失い、その後も干ばつや火山噴火などの自然災害を経験して育ちます。やがて火山局の技師となりますが、再び訪れつつある冷害を防ぐため、火山を爆発させることになります。しかし、爆発のスイッチを押す最後の一人は犠牲にならなければなりません。グスコーブドリは自分が犠牲になることを志願し、火山を爆発させます。それによりイーハートーヴの気温は上がり、冷害の危機から救われるというストーリーです。
物語は次のような一節で締めくくられます。
「そしてその次の日、イーハートーヴの人たちは、青ぞらが緑色に濁り、日や月が銅いろになったのを見ました。けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちやうど、このお話しのはじまりのようになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリ(妹)といっしょに、その冬を暖かい食べ物と、明るい薪で楽しく暮らすことが出来たのでした。」
この物語の中には、東北の地の厳しい自然環境の中にあって苦悶する人間の姿と、「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」「デクノボー(木偶の坊)」として生を全うしようとする賢治の死生観が埋め込まれています。
理想と現実との狭間で、賢治の心は深く痛めつけられていたに違いありません。生老病死の苦しみを目の当たりにする中で、病床でつぶやいた言葉が「雨ニモマケズ」であったのだろうと思います。
諸外国で報じられた今回の震災に関する報道の中で、日本人、東北人の道徳心の高さ、忍耐強さが賞賛されていました。決して争わず寒空の下であっても整然と列を作り、自分の順番を待って配給物資を受け取るその姿は、諸外国の人びとには想像することが出来ないことなのかもしれません。
「慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラッテヰル」という言葉が、そのような東北の被災者の方々の姿に重ね合わされます。
私自身も、被災地域に入っての物資支援や炊き出し、傾聴活動などをさせていただいてきましたが、当初から被災した方々のその整然として落ち着いた態度に、人としての尊厳の有りようを感じてきました。それは賢治の時代から、いや、数百年の時を超えて連綿と伝わってきた、東北人の魂の表れなのかもしれません。
◆
さて、大震災から丸一年が経ちます。識者が「千年に一度」と評する今回の震災は、原子力発電所の事故も誘発し、未だ10万人ともいわれる人たちが流浪の民として避難生活を強いられています。
賢治の時代から比べて、現代社会は物質的にはとても豊かになりました。少なくとも冷害や干ばつによる飢饉で人が飢え死にすることはなくなっています。それは、日本人のたゆまぬ努力と科学技術の恩恵によるものと言えるかもしれません。街から闇が消え、24時間365日、光の世界、ハレの世界が広がっています。
しかし、今回の震災はそんな私たちの生き様に、疑問符を投げかけたのだと思われて仕方ありません。現在の電力消費量は、バブル景気が起こった1980年代後半と比べておよそ3割も増加しているそうです。原子力発電による電気の供給量は、全体の3割ほどです。つまり、バブル景気が起こった当初のレベルにまで電力の消費量を落とせば、原子力発電所が稼働しなくても私たちは充分に生活ができるということになります。
もちろん同時に、再生可能エネルギーの開発にも取り組んで行く必要はあるでしょう。先ほどご紹介した『グスコーブドリの伝記』の中にも「潮汐発電所がイーハートーヴの海岸に二百も配置された」という記述があります。賢治は芸術家としてばかりではなく、科学者としても先見の明があったということになるのでしょう。
震災後、東京では地下鉄構内の照明をはじめ、さまざまな場所で節電が実施されました。東京タワーのライトアップも制限されました。そのほの暗い照明に初めは違和感を覚えましたが、一週間も経たないうちに、私はそれがむしろ心地よく感じられるようになりました。「これが本当の日常、ケの世界なのかもしれない」と思ったほどです。
賢治が言う「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」ながら、日常を生きることは、ある意味で人が歩むべき自然な道のように思われます。むりやり人の欲望を喚起して、無駄な消費を増やすことは、結果的に人ばかりではなく、この地球という大いなるいのちをも破壊することにつながるのではないでしょうか。
1972年、インドと中国にはさまれたヒマラヤ山脈の東にある小国ブータンの国王が、GNH(国民総幸福量)という、これまでの経済生産を指標としたGNP(国民総生産量)やGDP(国内総生産量)に代わる、新たな豊かさの基準を提示し国内外に問いかけました。2005年に行われた国勢調査では、「あなたは今幸せか」という問いに対し、45 ・1%が「とても幸福」、51 ・6%が「幸福」と回答したそうです。ブータンの一人あたりの国民総所得はわずかに1920ドル(2010年時点)に過ぎません。にもかかわらず、国民の9割以上が「幸せである」と感じているのです。
戦後の高度成長期からバブル経済期を経て、日本は成熟した大人の時代を迎えつつあります。そのような時機に起こった今回の震災は、今を生きる日本人一人ひとりに「幸せとは何か」ということについて深い問いかけをしているような気がしてなりません。
「ミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ」と賢治は語ります。「デクノボー」とは、「人の陰に立ちながら寄り添い支えることのできる存在」という意味ではないかと、私は解釈しています。東北の方々をはじめ、古来連綿として受け継がれてきた日本人としての豊かな特質が、そこにあるのではないかと思っています。
「幸せとは何か」を考える上で参考にしていただきたい賢治の言葉を、最後にもう一つご紹介しておきます。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する。この方向は古い聖者の踏みまた教えたみちではないか」(農民芸術概論綱要)