シンポジウム・講座

2011.10.10

震災と宗教を考えるシンポジウム2011「もうひとつの生き方を探る」

全青協など5団体の呼びかけによる「震災と宗教を考えるシンポジウム2011-もうひとつの生き方を探る」が10月10日、東京・港区の大本山増上寺・三緑ホールで開催されました。
これは東日本大震災を機に「宗教・宗教者は今後どのように行動し、どのように生きるべきか」そして、経済性や合理性を重視してきたこれまでの日本人の価値観を今一度見直し、「私たちが目指すべきもうひとつの生き方とは何か」をともに考えようと開催されたものです。
シンポジウム実行委員長で宗教学者の島薗 進さん(東京大学教授・日本宗教学会会長)の挨拶に続いて、基調講演として、スリランカを拠点にサルボダヤ運動を世界で展開しているA・T・アリヤラトネさん(サルボダヤ会代表)が登壇しました。
サルボダヤ運動は、仏教の教えを原点にしながら、農村や貧困地域の開発を進めている一方で、宗教の枠を超えてさまざまな人たちを救済し援助している世界的な活動組織です。創立以来53年の実績は、内外から高い評価を受けています。
アリヤラトネさんは2004年のスマトラ島沖地震で被災した経験を踏まえつつ、次のように熱弁を振るいました。

日本が変革の主導となってほしい

日本の大震災後、私たちはスリランカから日本の被災者や犠牲者のために祈りを捧げました。仏教の教えでは、私たちはさまざまな苦を体験し、それを克服していく体験を経て仏の道を歩んでいきます。
ところが普段の日常生活では、その苦の中に私たちがいるということに気づかないのです。しかし、大災害に遭遇した時に『私たちはやはりこういう苦を克服する場面に今いるんだ』ということに改めて気づかされます。
私は過去40年間、多くの国を訪れ、原子力エネルギーは使うべきではないと繰り返し申し上げてきました。科学技術の発展には賛成ですが、人類がコントロールできない技術は使うべきではないでしょう。
現代の地球社会は欲と悪意と無痴に基づいた文明に支配されています。これを続ければ、人類に残された時間はそう長くないでしょう。それとは逆の、社会的、経済的、政治的発展を人類は目指すべきです。それは仏教の教えに基づいた、個人と社会と自然が調和した生き方なのです。
また、快楽を求めエゴを追求するような誤った見方に立っている限り、人類の未来はありません。逆に無私、つまり自分のエゴを超えた状態を指向していくことが大切です。そうした仏教的立場に立って、政治や経済の仕組みを根本的に考え直していく必要があります。
私たちは生活をよりシンプルにしていくことによって、新しい地球社会の方向性を築いて行くことができるでしょう。
そして人類が持続可能な未来を作っていくために、もっと科学が心の探求をする必要があると思います。心が物質界にどういう影響を与えるのかという研究は、これまでほとんどありませんでした。自然災害も、自然が勝手に起こしたというよりは、人類の心が引き起こしてきた面もあるのではないでしょうか。
世界に必要なのは、仏教に基づいた精神的な原理原則を、政治、経済、社会制度のあらゆるところに確立することであって、日本がそのための牽引役となってくれればと思っています。

コミュニティを意識しながらそれぞれの活動を

続くパネルディスカッションでは「震災と宗教」というテーマを軸に、「宗教者や宗教が果たすべき役割や可能性」について4人のパネラーから次のような発表がありました。
福島県三春町のお寺の住職でもある玄侑宗久さん(芥川賞受賞作家・花園大学客員教授)は、この度の震災で、国や県が決して住民を守ってくれる組織ではないと痛感しています、と前置きし、神社仏閣を、避難所としての役割をもった施設としてもう一度考えてみてはどうかと提案しました。
宗教者のなすべきことについては、「活動にもいろいろあるので、一概にどういう活動をすべきだとは言えません。たとえば白隠禅師みたいに、富士山が噴火して『避難してください、和尚さん』と迫られても、『これで死ぬくらいなら俺の力はもともとない』と呟いて本堂で坐禅していた例もあります。特に放射能の恐怖の中では、『和尚さんが側にいるだけでもありがたい』ということもあると思うのです。そういう在り方があっていいのではないでしょうか。また今回思ったのは、やはり宗教者というのは、小さなコミュニティに根ざしている存在だということです。特に東北は、そうした意識が今後も重要となるでしょう」と述べ、地域社会と一体になった宗教者や宗教施設の在り方の重要性を強調しました。

 

パネリストそれぞれの提言

次に、いわゆる小泉政権時に法務大臣に就任し、その信念から死刑執行命令書に署名しなかったことで知られる杉浦正健さん(弁護士)は、「今回の大震災により日本は転機を迎え、日本人が生き方について反省する機会にもなりました。豊かな物質生活のために、行き過ぎはなかったか、何か足りないものはなかったのかということを反省する機会になったのではないでしょうか」と発言、物欲に振り回される現在の生き方を反省し、質素な生活を目指していくべきであると提言しました。
続いてカトリックのシスターである高木慶子さん(上智大学グリーフケア研究所所長・上智大学教授)は、今回の大津波で夫を亡くされた人(被災者)へのケアについて言及し、「私がお祈りしたら、その方は『ああ、私も主人も救われますね』と言われたのです。私は神様でも仏様でも阿弥陀如来様でもないから、『はい、救われます』とは言えません。『ただ、信じましょうね』といってお別れしました。こういうベールを被った人間を、苦しい時に人さまは受け入れて下さり、安心して頂けるんだなという体験を私自身が感じています」と述べました。
そして島薗さんは、コメンテーター的な立場から、次のように発言しました。
「宗教者は、宗教者らしく、いわば高いところにあるからこそ頼りにできるという面と、等目線だったり、下からの視点で見たりするからこそお互い同志と感じられるとい、その両面があると思います。宗教者、学者、政治家には、こちらから何か働きかけていくというよりも、むしろ被災された方や悲しみに暮れている方から自分が何かを得たいというような視点や態度が必要なのではないでしょうか」
つまり、被災者への援助が大事だからといって大上段に構えるのではなく、むしろ自分のほうが援助されているかもしれない、教えられているのだという思いをもって助け合っていくことの重要性を指摘しました。

地域間の温度差...その上で宗教者の役割とは

震災を経て日本人がどのように復興する必要があるのかという問いについては、杉浦さんは「今『がんばろう、日本』というシールをあちこちで目にします。国民的合意というか、がんばらなきゃならんという気持ちが、やはり大事でしょう。それがあるからこそ私は復興できると思います」と述べました。
これに対して玄侑さんは「最初のうちは、がんばるしかないかなと思っていたけれど、がんばるとは、負けないということ。負けないということは、すなわち勝つということになる。勝ち負けを思うと、やっぱり市場経済のことを思い浮かべます。風評被害などで、市場経済から降りたいという気分が、今の福島県人にはものすごくある。同じ市場経済の中に戻って再び勝つぞという話は、ちょっと現時点では不可能に思えます」と、異なる見解を示しました。
その上で玄侑さんは「脱原発も、これ以上言ようがないというくらいもはや当然、という気もしますが、その感覚は全国にまで行き届いてはいないし、わかってもらえていないような気がします。特に全国紙は、そういう風潮の報道ではないなと強く感じます」と、原発事故の深刻さの一端を示すとともに、マスメディアの報道姿勢にも不信感を滲ませました。また、大震災が起きてからは、東日本と西日本の微妙な温度差についても、感じるところがあるようです。
高木さんも温度差は確かに感じると言い、「自分が体験しないものを、本当に自分のこととすることは難しいのです。自分が体験していないけれども、人の痛み、悲しみ、負の面に共感すること。それが、宗教の在り方であろうと思うのです。災害というのは、やはり地域で温度差が出てきても仕方がない。でも、それを補っていくのが宗教と宗教者の役割では」と強調しました。

宗教、そして宗派を越えた先へ

それでは今後、日本人はどうすべきなのか、という生き方に関するパネラーの意見は、次のようなものでした。
玄侑さんは「これから目指すべきなのは、小さな自治だと思います。グローバルな方向に行くのではなくて、むしろそれを閉じなきゃいけないと思う。本来は、狭いエリアの中ですべてが揃うべきだし、その中心に宗教施設があって、檀家さんから買えば大体済むという方向でありたいと思います。我々の住んでいる田舎の経済は、お金だけじゃない別の経済がものすごく絡んでいます。経済は換金価値だけではないということを、特に宗教界は感じていないといけないのでは」そう見解を示しました。
杉浦さんは「日本人もそれぞれに生き方があり、それぞれが考えて選択していく問題です。何が起こるかわからない世界の中で、自分たちが生き方を決め、国の動きを決めていくんだということをまず肝に銘じて行動する必要があるのではないでしょうか」と語りました。さらに、「政治も大事だけれど、ひきこもりや自死など、現代社会の心の問題は政治が入り込める余地はないに等しい。こうした問題に光を当てられるのは、宗教しかないと思います。宗教家の皆さまには、宗派を超えて団結しこの問題に正面から向き合って頂きたい」と、宗教や宗教家に対する期待を表明しました。
高木さんは「ひとまず、自分のことだけを見つめて考えて頂きたい。私たちには、ささやかな幸せがあればいいと思います。そのためには、そこそこの健康、そこそこの人間関係、そこそこの仕事があれば、自分らしく生きていけると思うのです」と発言しました。
そして、「今こそ、宗教者は宗派を超えて団結しないといけない時です。自分の宗派にこだわるようなことはやめましょう。この宗教という、利害関係を求めない集団が社会を動かし、政治を動かし、経済を動かす時代が次に来なかったら、私たちは幸せにならないでしょう」と、宗教者の立場から、日本人の方向性へヒントを示しました。
最後に島薗さんは「災害に遭ってみて、自分たちに足りないところがあったと気がついたことが非常に重要です。ただし、資本主義をすべて批判したり、科学技術をマイナスの方向ばかりにとらえる必要はないと思います。それを補うに足る宗教の力、そして、大切なこころを我々は持っている。そう示していけるような活動を支援の中にも具体化できれば」と締めくくりました。
シンポジウムは3時間半にも及びましたが、来場者は皆さん最後まで熱心に耳を傾けていました。
この大震災を通じて、私たちが得た気づきはとてつもなく大きく、人生観、そしてそれぞれの宗教観まで否が応でも問いただされることになりました。一人ひとりのこころに去来するたくさんの思いを無視することなく生かし切ることが、この奇跡のような地球を守り、持続可能な社会を次世代に残すための重要な策となることでしょう。

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