寺子屋ふぁみりあ
2011.02.12
人、みなに美しき花あり ~仏教の人生観・人間観~(2)
教育基本法と民主主義の精神
ここで、角度をかえて教育基本法をみてみましょう。安倍氏が首相の頃にこの法をかえましたが、宗教についての規定は大きく変わることはなく、国家権力は人間の根本の生き方を示す宗教には手を出さないとしており、宗教の社会的な地位は、教育においてもこれを尊重しなければならないとしています。そもそもこの項目は、かつて国家が宗教を利用して軍国化を進めたことへの強い反省を踏まえてできたはずです。
仏教が伝えたいことは、自己愛とは自己中心的(利己的)なものではありません。自分は誰にとっても代わることのできない、どんな状況であっても、それはかけがえのない存在で、何の役にも立たたないのにこの世に出てきたなんていう人は一人もいません。お釈迦様にめでられない人は、この世に生まれてきません。めでられた一人ひとりが大切にされるのが、民主主義の基本にある考えです。一人ひとりの意見と尊厳と生き方が、それぞれ尊重されるのが民主主義の世の中です。宗教に裏打ちされない民主主義は、絵に描いた餅です。
学校の先生には、新学期にクラス編成したはじめに「不思議なご縁で同じ時代や場所に生まれて、一緒のクラスになった人どうしなのだからお互いに大事にしようね」と言ってもらいたいと思います。
仏教の人間観
仏教の人間観とは「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」であり、全ての生けとし生けるものは、悉く仏性、かけがえのない命を神仏・天からいただいて、それぞれが大切な存在だということです。
皆それぞれが仏さま、神さまからいのちを授かり、何らかの使命や役割があるのです。それが一人ひとりの子の個性なのです。そこで、その子のもっている特性や個性を輝くようにすることが大切なことになります。
比較なんかできない、それぞれが美しい花であり、それぞれが仏さまの子として、この世に遣わされたという、仏子としての自覚が大事です。
命をいかにキラキラと輝かせるかということは自分を発見し、自分を実現する、すなわち自分は一体どういう生き方をしたらよいのかということを青年期に見つめることが大切になります。
槇原敬之さんが作詞・作曲した『世界に一つだけの花』という歌があります。いい歌ですね。その中にもありますが、誰もが「世界に一つだけの花」、そして「もともと特別なOnly one」なのです。この「一切衆生悉有仏性」ベースにした、全ての人への対応につながる仏教徒としてのあり方のポイントをここで挙げてみたいと思います。
一つは、その人その人の持っている仏性、特性、その人だけがもっている命の花を早く見つけて、それを尊重して、進んで引き出してあげて、開花するように促すということです。
英語で「教育」をeducationといいますが、その語源は「引き出す」ということです。その人が内にもっているものを、損なわないように引き出してあげて、学校の成績だけでは評価しないということです。花にもいろいろあります。それぞれにそれぞれの特長があって序列をつけることなど出来ないのです。
母親は子どもを産んだ時、私がつくったと思いがちです。人間としての姿かたちをもって生まれてくることは当たり前のことではありません。本当はまことに不可思議なことで、生命体はまさに小宇宙なのです。
学校時代は偏差値や点数が高いことがすばらしいとされ、中央官庁や一流企業といわれるところに就職して、経済的に裕福になるのがよいとされるような経済効率第一主義の中だけで生きるのは、とても息苦しいことです。今後は、そのような社会には乗り切れなかった人のほうが、人類の将来を担っていく可能性があるかも知れません。
今のように人を平気に押しのけて、利潤だけ追求していくようなあり方はいつまでも続きません。そもそも、個性や特性を無視した一律の人物判定や序列化をするのは、仏教の教えに反しています。
二つ目に、何でも本人が考えて実行するようにすることです。特に、日々の生活ではこのようにすることが大切です。自主性と自立性を重んずることで、自己発見・自己実現ができるようにもなります。
自分の個性や特性に気付いて、自己発見・自己実現をして、社会の中で役立っていることを実感することで、自分はここにいていいのだ、生まれてきて良かった、世の中で役立っていると自信をもって人生を生ききることができるようになった状態を、仏教では「成仏」といいます。
それなのに、親は子どもが自立できるようにするべきところを、逆に自立性の営みを妨げてはいないでしょうか。子どもの誰もがもっている生命力を信じて、つまりは自立性を尊重することが大切です。
三つ目は、命は命によって支えられていることを知らせることです。
食事は、生き方や生きる姿勢を学ぶ大事な宗教教育の場でもあります。生きるためには、食べなくてはなりません。食べるということは、命あるものから命をいただくことで、明らかに、他のかけがいのない生きものを殺して、自分の命を養っているのです。
「いただきます」とは目前の食物ではなく、その食材のもととなっているそれぞれの命に「あなたの命をいただきます」ということです。 食事をただ目の前にある料理を食べるだけと勘違いしそうですが、実は手を合わせて「いただきます!」というには、それぞれの命に向かって感謝の心を表し、他の命をもったいなくもいただいている私は、それに見合う生き方をしっかりしますという意思表明なのです。
言い換えれば、生きていること、存在していることは、どんなに神秘的で不可思議なことであり、いろいろな命によって支えられていることか承知するのが重要な宗教行事としての食事です。
結論
ともかく、いろいろな命に支えられているかけがえのない一人ひとりの命を大切にして、勝手な都合や偏見で切り捨てるなどせずに、お互いの人格を尊重していくような生き方を一緒にしていくことが、仏教の教えるところです。
人はそれぞれに必要と訳があって存在している。一人一人を大切にして、自分の勝手な思いこみでパージしたり、差別してはいけないということです。従って親や教師はこの世に縁あって生を受けた人々が己の本分を自覚して、イキイキ、キラキラした人生を送る手助け・お世話であり、宗教・仏教とは、どんな状況下にあっても一人ひとりが自己の存在意義を大いに発揮して、イキイキ、キラキライキイキ、キラキライキイキ、キラキライキイキ、キラキラと輝いて生きることに貢献すべきものなのです。