寺子屋ふぁみりあ
2010.07.15
問うてみませんか?家庭の場(2)
家庭こそが社会生活の「学習の場」
思春期前の子どもにとって家庭は、どういう学習の場となっているのでしょうか。これも、いくつかに分類することができます。
大きく分けて、一つは「対人関係の緩和の機能」、二つ目は、「愛情、学習の最初の場としての機能」です。私が施設で子どもたちと関わってきた際に経験したところによると、愛されたことのない子どもは、人を愛するということができないのです。いわば、人に接する術(すべ)を知らないのです。本来家庭は愛情を学習する場であるにもかかわらず、最近では、学習するチャンスがないという子どもたちも多く、対人関係のマイナスの要因を逆に強化してしまっているような事例も多いのです。
そして三つ目は、「失敗が許される場としての機能」です。人間は失敗をするものです。成績が悪かったのは、勉強しなかったからだ、お前が悪いんだ......そういった言葉は、思春期前の子どもたちにはとてもきついものです。悪い点数だったとしても、ひとまずそれを親が受け止めるということが大切です。 「今回は悪かったけど、やればできるようになるね、一緒に考えていこうね、頑張ろうね」、そういう視点を持つことは親にとっては難しいものですが、「失敗が許される」ということは、子どものこころの安定には、たいへん大切な要素です。受け止められてこそ、次のステップにもつながっていきます。人間は、やはり誰かに認められたいし、誉められたいものです。
こうして「受け止められた」という経験がある子は、見ているとやはり違います。いじめの問題等も、こうしたこととまったく無関係ではありません。人との関わりの中で子どもは成長するものですが、特に基本となる親子の関係を大切にしなければならないのではないかと思います。
昨今では、隣近所や勤め先の関係、そして親子の縁までわざわざ断ち切って「わずらわしいから」とひとりで暮らす子どもたちも多いのです。しかし、内実はとても不安定なはずです。
人間は、自分が「求められているのか」「役立っているのか」をいつも気にしているものです。自分の存在が実感でき、人との関わりで何か役に立っているという機会を自認したとき、いわば役割が実感できます。自分がなくてはならない存在であることを自覚することは将来、自分なりの生活を営む土台となるはずです。その源は、家庭における家族関係の支えであると考えられます。まず家庭において、子どもにとって安定した自分の「場」があるということが必要です。
たとえばアメリカのある地域では、小学生くらいの時から、子どもたちが新聞配達を、当番のようにすることになっていました。配達は、その地域に住む子どもたちの役割として行われているのです。「地域住民としての自覚をもつ」ということを、こんなところで学んでいるわけです。
努力と努力が実るとき
私はよく家庭相談を受けてきましたが、ある母親からこんな相談を受けたことがあります。
高校へは行っていないが、そのくらいの年頃の娘がいる。毎日、娘になぐられたり蹴られたりして、それが近隣でも評判になってしまっている、どうしたらよいかという相談でした。話を聞いていくと、その娘さんは、色々なことには反発するものの、時々突如として「おかあちゃ~ん」と言って抱き付きにも来るというのです。「この子、おかしくなったのでは?と母親は思い、接し方がわが娘ながらわからない」というのです。
そこで私はすかさず、「そのまま抱きしめてあげたら?」と言いました。母親は納得がいかない様子で帰ってしまいましたが、しばらくしてまたその母親はやってきました。その後、相変わらず暴力は繰り返されているが、ある日、思い切って抱きしめてみた、そうしたら、娘は本当にびっくりした表情をした、と言うんです。
よくよく聞いてみたら、娘の小さい頃、たとえば泣き止まなかったり言うことを聞かなかったりした時などは、お風呂の中に放り込んだりと、あと一歩で虐待のようなこともしていたそうです。だから、私は、子どもの行為の背景には、かならずサインがある、子どもは気付いて欲しいという思いを行動に表しているのだというようなことを話しましたら、「抱きしめたらと言われた、その意味がようやくわかった」と言ってその母親は帰って行きました。いわば母親自身の気づきが大切と思われます。そういう状況の背景には、必ず原因があり、子どものメッセージが隠されているということをお伝えしていきたいと思います。
私たちは、考えていることすべてを人に示すことはできません。つまり、逆を考えると悲しいかな、相手のすべてを理解することはできないのです。しかし、理解しようとすること、相手の欲求を知ろうと「努力」する姿勢がまず大切なのです。
地域の子育て支援センターなどで、私はそういう話をすることがありますが、いまの母親たちは、時代のせいでしょうか、自分本位な考え方の人が多いのです。口では子どものためと言っていても、そういう人は実のところ、「最終的には自分が困るから子どもを直したい、よくしたい」と考えているのです。