寺子屋ふぁみりあ

2018.11.01

「こうありたい」という声を聴く

2018年11月1日、平成30年度第五回目の寺子屋ふぁみりあが開催されました。

今回は、株式会社創造集団440Hz取締役の長井岳先生に、「『こうありたい』という声を聴く」と題してご講演いただきました。
以下は講演の抄録です。

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 会社は、映像とデザインをやっております。中学校出た後にしていた土木工事と、映像やデザインをやることは、実はそんなに変わらず、準備をして、一つずつちゃんとやっていく感じで、そんな派手な仕事でもないと思っています。

 自己紹介を丁寧にやっていきます。二、三年前にやった「当事者研究」ですけれども、自分の体験を、社会学的な見方で掘り下げていく研究です。「くさびはいつ打ち込まれたのか?」というタイトルで、研究発表しました。

 映像の仕事で撮影に行くんですが、現場で監督さんを目の前にすると、小さくなる自分がいる。シューレ大学でお世話になった、アートセラピストの方と再会すると、なぜか固まる。ダメな自分がばれるんじゃないかと思ってる自分がいます。こういう時に自分の中を見てみると、自分の気持ちにくさびがささっている。痛みによって、そのままの自分でいられないことがありました。このくさびが、いつ打ち込まれたかを考える研究です。

 小学校の頃は、「100点の長井くん」と呼ばれてました。先生が大好きだったので、言うこと聞いているうちに、気づいたら点数が上がっていった。生き生きしてました。

 中三で水道会社に就職するんですけれども、先輩が僕に「ガム食べないか?」「サンキュー」と言って。「ちょっとその言葉遣いまずいんじゃないか」と言われて、ショック。帰りに辛い気持ちになって、やっぱり自分はダメなんだ、強くなれないと思った記憶があります。この時の自分を見てみると、くさびが入っている。この三年間にくさびが打ち込まれたのではないかということで、見ていきたいと思います。

 中学校で失っていく自信。荒れた中学で、入学後すぐ自分のクラスに向かう時、学校のボスみたいな先輩が僕をにらんでいた。昇降口で、先輩が靴を取ろうとしたことを邪魔したらしいんです。別の日にその先輩が現れて、突然僕の裾をつかみ引っ張って行った。すごく怖かったんですけれども、どうしていいかわからない。

 勉強は好きだったので、宿題を先生が言われる以上に、やってきたんです。別に先生はそれに対して褒めもせず、ちょっとショック。やる気が無くなる。成績がどんどん落ちて行きました。

 丸刈り校則があって、男子は五分刈りにしなくちゃいけない。署名を作って校則を変えようと思い、先生に言ってみたら、「それは生徒会でやるもので、一生徒がやることじゃない」何も言えない自分はダメだ。

 真面目だったんで、友達と二人で頑張って教室の掃除。当然認めてくれると思ったら、むしろレッテルはられて、ランクが下になりました。

 一年の最初に学級委員長になったので、スポーツテストとかで引率します。スムーズに空いている所に行って、早めに帰って来る能力が求められるんです。結果的にテストの時間が長くなり、空き時間が短くなる。同級生が、「お前は委員長失格だよ」自分のせいだと思って辛い。まだくさびは打ち込まれていない。

 あこがれの友人が、入学以来髪を一回も切らなかったんです。授業中、ある先生に「髪が長い奴は俺の授業受けさせない」と言われて、売り言葉に買い言葉で、友人が学校出て行った。すごいショックで、じゃあ僕は代わりに髪を伸ばすんだ。しばらくすると同級生が、「長井、髪長くね?」伸ばしたいのは、友人の転校に納得が行かなくてとは言えない。むしろ規則を破っている自分は、まずいと思いました。

 そうこうするうちに、学校に行けないことが起きたんです。朝目が覚めて、でも体が動かない。制服がどうしても着れない。ご飯も食べられない。1階に下りるんですけど、靴を履けない。母親が、「今日は休もうか」と言ってくれて、休むことになりました。そのうち友達が迎えに来て、頑張って学校に行くんですけど、道すがら、涙がこぼれそうになる。学校に着いても一日中泣きそうで、常に緊張状態。僕は弱くなったと感じました。くさびがささっている。

 この間のどこかでささったということで、巻き戻していきたいと思います。「長井、髪長くね?」にビクッとした瞬間、くさびが打ち込まれる。僕は、規則を破った自分がダメだと思ってたんです。実は髪を伸ばすことは、あこがれの友人になれる、よりこうありたい自分に向かっていく行動だったんです。自分はこう生きたいと思ったことを、自分で否定したことが、くさびだったんじゃないかという研究です。

 くさびがささった心臓を抱えた僕は、学校に着いても泣きそうだった。自分で自分を否定しているから、休まらない。その結果力が出ないし、弱くなった。そんな自分を、「か弱い自分」と思うようになりました。

 二度目の不登校中、担任の先生が進路を迫って来た。高校に行っても、ずっと自分は誰かの奴隷でいると思ったんです。もちろん嫌なので、どうすればいいかというと、強くなるしかない。そう思うと、目の前が開ける感じがしました。どうすれば強くなれるか。不良になれば、生まれ変われるんじゃないか。そういう人たちがしそうな選択として、就職を選んだ。

 か弱い自分はずっと自分の中にあって、ダメな自分を極端に恐れる。どんなにほかの人がいいと言ってくれても、不安が消えない。この研究を一年やっていたんですけど、研究の過程で、自分の最も奥にある痛みに、手が届いた感覚があったんです。一生この痛みを抱え続けて、か弱い自分という自己認識を持ち続けた可能性も、十二分にあった。そういった意味でのくさびだったんじゃないか。

 福島の水道会社へ就職し、いろいろ衝撃があったんです。中卒と高卒の人が、いっぱしの親方みたいな感じで現場を仕切っていた。学歴が無くても生きていける感覚や、段取りをして、順番を追って準備をしていく、基本的な所は身に付けたんです。そもそも、働きたくて働いているわけじゃなくて、強くなりたかった。別に水道会社で働いていて、強くなれないわけです。同級生は高校生で青春を謳歌していて、すごくうらやましい。いろいろ可愛がられもするんですけど、二年で辞めたんです。

 18歳になり、一体どうやって生きていくのか不安になって、死ぬしかないと思いました。遺書を残して家出しますが、捜索願まで出されて、帰って来たら、父親との対話が始まりました。父とのコミュニケーションは少なかったんですが、僕に真正面から対峙して、話を真剣に聴こうとしてくれたのは嬉しかった。実は不登校初日に、母が僕にしてくれたことともつながっていて、僕が学校に行けない状態の時、無理やり押し出すことをしなかった。僕の何かを信頼してくれたんだと思います。自分とは違った人間である、一人の人間として僕を見てくれたんじゃないか。父には仲間を作ることと、知識を得たい話をして、大学へ行けば何か起きるんじゃないかと言いました。

 サポート校をなんとか卒業して、大学のインド哲学科に入ります。大学に入れば、哲学的な会話が繰り広げられると期待していたんですけど、全然そんなことはない。インド哲学のサークルでは、普通にカラオケに行ったり、飲み会したり。サンスクリット語の授業中に質問しまくって、教授が困っちゃって。すごいショックで、やっぱりダメだって思った。

 そこから、半ひきこもり状態です。バイトはかろうじて行くんですけど、大学に行こうと思うと、気持ちが重くなる。三年半通いましたが、4単位しか取ってない。バイトも馬車馬のようにすごい働いちゃう。それこそ自分は弱い、ダメだと思うから、バイトの価値観に合わせてシフトもどんどん入れちゃうし、長時間労働も平気でしちゃう。擦り切れて、家から出れなくなる。

 なんとかしなければと思った時、インドに行けば何か変わるんじゃないかと。道から外れた時に、一発逆転を狙う感じで。行ったら初日から、白タクと観光案内所でだまされた。一人インドの街を歩くんですけど、すごい怖くて。いろいろ話しかけてくるんですけど、お金を取ろうと、だまそうとしてるんじゃないか。不登校とかひきこもった時の感情に似ていて、世の中全部が、自分を否定してる気がする。インドまで来たのに、自分はこうなのか。僕は強くなりたくて来たのに、むしろ弱くなってるんじゃないか。「これ買え」「タクシー乗れ」とか言われるのを、全て「ノーサンキュー」で答えながら、考えていました。

 自分の人生はどこからおかしくなったんだろうと思うと、やっぱり不登校ではないかと思って。「不登校した弱い自分」という認識があったんですが、その弱い自分から離れようとした。でも、そうしているうちにだんだん弱くなってると思った。そこで、もう一度不登校を見つめ直そうと決意しました。

 日本に帰ってきて、不登校の親の会とか、フリースクールに関わる中で、シューレ大学に出会うんです。学生が、多種多様なことをしてるんです。ピアノの演奏、映像作品、ソーラーカー、不登校研究など、一つ一つが衝撃で。不登校やひきこもりを経験した人が多くいるんですけど、自然体で輝いて見えた。さらにこの大学の、学生が自分たちで相談して、オーダーメイドのカリキュラムを作るという考え方が、高校を出る時に考えた、自分が作りたい学校とすごく合致してると思ったんです。

 これは入るしかないと入学申込書を出すんですけど、この大学に入ったからといって、順風満帆ではなく。憧れのプロジェクトに入ったのですが、リーダーとぶつかる。いろんなぶつかる場面があるたびに、スタッフが入ってきたり、学生同士で解決できることもあるんです。そういう経験によって、「自分以外全部敵」から解放され、人と一緒にやっていけるようになりました。その後、シューレ大学にも行けない時期があったんですけど、そのたびにいろんな話ができる。お互いにお互いのことを考え合う文化がこの大学にはあって、そういうことが積み重なって行った。

 会社を起業したと言うと、すごくびっくりされるんです。小さなぶつかり合いがあった時に、お互い大事にできるのかを日々試されていて、その積み重ねで自分たちは会社を興している。会社が動いている今も、否定感を抱えながら生きている仲間たちがいっぱいいます。突然辛くなって来なかったりとかするんですけど、来なくなると僕は困るわけですよ。仕事が止まるとか、ほかの会社に謝らなくちゃいけないとか。そういうことも含めて話せる関係ができてることによって、何とか成り立っているのかなと思います。

 シューレ大学に入って発見したのは、自分を助けてくれる大人がいることです。そのことによって、親のこともとらえ直せた。親に対して、不満とかいらだちとかあったんですけど、実は親は親で、僕のことをずっと助けようとしてくれた。シューレ大学に入ってからは、プロジェクトを辞めようとした時、辛さに向き合ってくれたことがあった。単純に受け入れるんじゃなく、僕の話を聴いた上で、その人の意見を、言える範囲で言ってくれることがありがたい。今や、むしろ僕がそのような困難を抱えた人たちに対して、そういう立ち位置となる場面が増えていて、結構難しいなあ。その人の言葉をどう受け入れて行くのか、どう理解していくのか。どういう言葉を伝えていけばいいのかというのは難しい。

 今の自分のことを思うと、そういう人たちに支えられて、自分がいることを改めて思います。すごく否定されたとしても、なんとか立てる自分を、今は持ってる。一緒に僕の人生を作って来てくれている人がいるし、今も助けを求めたらいつでも応えてくれる。今は僕も応えるんですけど。

ひきこもっている状況を考える時に、自分の経験からすると、地面を感じ辛い。自分が立てる地面が、無い状況だと思います。立つ地面を作ることは、大変な作業。どうすればそういう地面を作れるのか。もうちょっとその人が立って行き易い世の中は、どうすればできるのだろうかを、考えています。

自己治療としてのひきこもり行動と、そのケアについて 自分の時間軸で生きるということ
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