寺子屋ふぁみりあ
2017.07.06
平和を願い 平和に生きる
7月6日、平成29年度第三回目の寺子屋ふぁみりあが開催され、NPO法人くだかけ会主宰・和田重良先生に、「平和を願い 平和に生きる」をテーマにご講演いただきました。
以下は講演の抄録です。
この間、私の所にある団体が見学に来ました。山の物が食べたいというので、お昼ご飯に、鹿肉のそぼろを出しました。なぜ鹿の肉を出すかというと、ここは山の中ですから、鹿がいっぱい捕れます。山の中で農業をやっているうちに、イノシシや鹿が出てきて、みんな食っちゃいますから。ある時気がついて、そうだ、こいつらを食ってしまえばいいんだと。食べるためには、捕らなければいけないし、捕るためには、資格を取らなければいけません。さらに製肉も必要で、これが大変です。つまり、「循環型農業」をやっています。
私は、趣味として畑をやってきました。一緒に生活している若い子たちは、不登校や不良の子たちですが、種をまいたり、苗を植えたことも無いんです。そんな子たちと楽しみながらやっていたんです。そうしたら、息子がもっと面白いことをやりたいと言い出し、循環型農業を始めました。それで気がついたら動物もいっぱいいて、人間と一緒に生活している。こんな平和な世界は無いと思いました。
先日、一緒に生活している人たちの話を聞くチャンスがありました。質問コーナーで、ある人がいい質問をしました。そういうのがすごくヒントになるんですよ。私が気が付いたことを先回りして言ったり、前もって、「こんなことは失敗したっていいんだよ」と言ったとします。そうしても、多分彼らには入って来ないと思います。タイミング良く質問が出て来た時に、私としてはしめたと思って、何か言えるわけです。ところが、親御さんだと、なかなかそういうふうには行かないですね。チャンスが巡って来るのを待てませんよね。
人生観、つまり人生をどう見ていくかですが、家庭以外の場所であまり深められないテーマです。それは何かというと、「幸せに生きる」こういうテーマがあります。幸せって、私は平和であるから幸せなんだと思っています。
ところが、ほかの方に言わせると、いろいろテーマがあるんですよね。ある方は安定感、ある方は豊かさ。それで、幸せに生きるという人生観ではなく、教育に置き換えようとすると、混乱するんです。家族の中にいろいろ問題が起きている人も、人生観と教育観に、ギャップが出来てきているのです。
私は、「14歳」というテーマをずっと追って来ました。その頃に不登校や不良になる子どもたちがいっぱい出て来ます。それって、その時に出てくるわけではなく、ずっと手前からあるわけです。だからその元を追って行ったら、幼児教育に行き当たったんです。
僕の所に来る人たちは、全部遊びから入るんです。遊び以外何もしないんですから。遊びから入っていくと、取り戻してくる自分がいるんです。遊びの天才は幼児期でしょう。それであちこちの幼稚園を見に行ったら、教育と人生のギャップの秘密があったんです。
幼児教育のテキストを開けてみて下さい。必ず第一テーマに遊びがあります。その目的は、社会性なんです。そこでガツンと来たわけです。遊ばない人は駄目なんですね。遊びって、理屈抜きですから。それでは遊びのテーマは何でしょうか。遊びの中で一番育つのは、自分ということです。自我。人と自分の関係は、個の確立なのです。でも、一人ひとりが大事という個の確立が、幼児期から無くなっているんです。
「くつろぐ」という単語があります。子供はどこでくつろいでいるんでしょうか。家にずっといて、くつろいでいるんだろうか。くつろいでいるというのはどういう状態だろうか。学校行っても全くくつろげてないですよ。毎日宿題とか出されて、朝には学校に行かなければならない。私は、一番くつろいでいるのは座っている時だと思っています。
一緒に生活している人のメールを読むと、みんな共通してどこかに縛られている、心が解放されていないと感じます。やはり原因は、教育の価値観にあることが見えてきます。平和というのは、明るさと安らぎと希望の三拍子が揃っていることだと思いますが、今の社会ではこれが全部奪われているでしょう。誰が学校教育制度を作ったのでしょう。
私は、やる気の動機づけを考えています。一番上手く行っていないのが、ご褒美や、目先の交換条件を出してやる気を出させること(外在する動機づけ)です。私の所に苦しみを持ってくる人たちは、ハードルを自分で超えたことがありません。どんなふうに設定するかというと、一つでもできることを増やす。それで、小さなハードルでもいいから、自分で超えてみるという体験をする(内在する動機づけ)。そうすると、面白いように満足していくし、褒めなくても全然大丈夫です。
一緒に生活している人の中には、自分で農作物を育てた人もいました。最初の年はすごく上手くいきました。でも次の年は、全滅。こういうものなのです。最初は上手くいきます。でも、次に超えなければならない所が絶対に出てくるんです。やってみて失敗してもいいし、やってみて一個でも収穫できれば大成功。一個、どんな小さなハードルでも超えてみる。能力を伸ばす鍵は、こんな所にあるのです。
個の尊厳というのは、自分って何だろうという問いかけなんです。「個」という、一人ひとりという尊厳。私のそばに来る人たちは、若い人も働いている人も、みんな経済的にものすごく貧困です。やはり根本には、教育の出発点に一人ひとりの尊厳がない。そこを外すから、平和でない社会とか、平和でない家庭とかに、追い込まれるのです。
最近、オスカー・ワイルドの童話「幸福の王子」を読みましたが、なんて暗い作品なんでしょう。でも読んでいるうちに、この人の気持ちが伝わって来たんです。実は、オスカー・ワイルドは同性愛者でした。当時、同性愛は犯罪とされ、彼も刑務所へ入れられました。
彼の残した名言をいくつか紹介します。「ほとんどの人間は他人である」「思考は誰かの意見である」「人生は物まねだ」「情熱は引用である」これらの言葉を、今の社会に置き換えてみたら、ヒントがいっぱい出てきます。
最後に、呼びかけです。私の住んでいる山中に、トンボが卵を産めるようなビオトープを作りたいんです。家でひきこもっているお子さんがいたら、石を一個ずつ持ってきて、山へ来てみて下さい。